1977年WRCチャンピオンが語るランチア・ストラトスが持つ無敵の強さ

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1977年のWRCチャンピオンにして3度のモンテカルロ王者である、サンドロ・ムナーリは簡単に笑顔を見せない。ベネチア人は子どもの頃から、実直・勤勉であれと教えられ、成功は犠牲の上に成り立つと聞いて育つ。しかし、ランチア・ストラトスについて尋ねると、とたんに眼差しが和らいで、ほほ笑みが浮かんだ。

現在79歳のムナーリは、史上最も偉大なラリードライバーのひとりに数えられているが、特に、1970年代に究極のラリーウェポンだったストラトスを誰よりも乗りこなしたドライバーとして有名だ。

「初めてストラトスを見たときのことをよく覚えている。ベルトーネが造った最初のプロトタイプ、ウェッジシェイプのやつだ(ストラトス・ゼロ)。見る分には美しい車だったが、ラリーカーではあり得なかった。その頃、チェーザレ・フィオリオが最高のアイデアを思いついた。レーシングチームの全員に、どんな車にすべきか、条件をひとつかふたつずつ書かせたんだ。誰もが何かしら提案した。私が頼んだのは、エンジンを300bhpにすることだ。その願いごとのせいで、自分が交渉の切り札に使われることになるとも知らずにね。フィオリオは、そんな大パワーをどうするつもりだと不思議がった。"もらえれば、どうにでもしてみせるさ!"と答えたよ」

「 私は、フルヴィアHFのパワー不足に飽き飽きしていた。相手はポルシェ911やアルピーヌだ。勝つためには、毎回スタート前に雨乞いか雪乞いをするしかなかった。フェラーリにディーノの新しいエンジンを求めたら、イル・コマンダトーレは同意したが、交換条件として、私にフェラーリ312Pでタルガ・フローリオに出るよう要求した。いったいどうして、160bhpの前輪駆動のフルヴィアに慣れたラリードライバーが、460bhpのミドエンジンのプロトタイプでレースできると思ったのか、いまだに分からない。ところが、その見立ては正しかったよ」

ストラトスの初期段階での開発は難航した。ロードホールディングが最悪で、いくら調整してもなんの効果も現れなかったのだ。

「自分の手でストラトスを造り上げた。それも頑固にね。私は石頭なんだよ。最初に走ったのはコルシカでのテストで、ジャンパオロ・ダラーラとマイク・パークスが一緒だった。これが目も当てられない有様で、とても運転できる代物じゃなかった。ストラトスは走るたびに、アンダーステアだったりオーバーステアだったり、反応が変わったんだ。なんの理由もなく、セットアップとも無関係にね。私はレポートに『フロントとリアがまん中で連結されているだけで、それぞれが逆方向へ行こうとする感じだ』と書いたさ」

「そのうち真の問題があらわになった。問題を修正するどころか、経営陣の一部は、車は間違っていないのに、チームの仕事がなっていないと決めつけたんだ。そのせいで、運転のしようがない車で数カ月を無駄にした。プロジェクト自体をあきらめる寸前までいったよ。最後のテストにと、スペインのコスタ・デル・ソル・ラリーに出掛けたときだ。予算が限られていたので、マイク・パークスがテクニシャンで、2 名のメカニックと車1 台だけで行った。私は最後の改良をターマックで試したが、車は相変わらずだったんだ。今もよく覚えているよ。マイクはバンの中で、私の反応を心配そうに待っていた。私はそこへ行って、一瞬考えたが、こう言ったんだ。『マイク、相変わらず最悪だ』とね。その答えで、ストラトスのプロジェクトが終わる可能性のあることも分かっていた」

「だが、そこであるアイデアが浮かんだ。それまで一度もダートで試していなかったんだ。そこで、どんな感じか見るだけだが、一度だけ試してみようということになった。グラベル用のタイヤを履いて、私は近くのダートロードへ行った。そうしたらロケットみたいに走ったんだ。あれほど素晴らしい走りは味わったことがなかった。最初の1mからパーフェクトさ。私は、フロントウィンドウの端から端まで届くくらいの笑顔で戻って、マイクに言ったよ。『グラベルでもこんなふうに走る車をくれ。それで準備完了だ』とね」

「これでようやく、強固なハブキャリアが用意されてきた。第1日目から頼んでいたものだ。すると、ストラトスはとんでもなく魅力的な車になった。当時も今も、まさに完璧なラリーカーだよ。速いが、同時に信頼性も素晴らしく、運転はエキサイティングだ。最大の長所はハンドリングだね。私はおそらくこの車のステアリングを一番長く握った人間だが、ストラトスが予想外の反応をした記憶は一度もない」

「コツは簡単だ。ステアリングでフロントを行きたい方向へ向けたら、リアのことは忘れる。なぜだか必ずついてくるからだ。最適なラインにのせたら、もうステアリングを動かさず、すべてのバランスを取りながらスロットルペダルだけで態勢を整える。アンダーでもオーバーでも自分の好きにしていい。必ずスムーズにまとまると信じられる。雪でもターマックでもダートでもうまくいったし、サーキットでも通用したよ」



簡単に聞こえるが、ムナーリこそ最高のストラトス使いだと多くの偉大なラリードライバーたちが認めている。その秘密を聞くと、ムナーリはこう答えた。

「あるレベルに達すると、ほかより優れたドライバーというのはいない。少なくともテクニックの上ではね。差が出るのは感覚の鋭さだ。ストラトスの限界は非常に高いから、毎回到達することはできない。限界を最も鋭く感じ取り、そこに最も近づける者が最速のドライバーになる。ストラトスの場合は、それが私だったのかもしれない」

重要なラリーイベントの中で、ストラトスが唯一優勝を逃したのがサファリ・ラリーだ。あの過酷なラリーにストラトスは合わなかったということだろうか。 

「とんでもない見当違いだ。ストラトスはほぼ完璧なマシンだったから、サファリだって勝てたさ。勝てなかったのは、信じられないくらい不運が重なったせいだ。1975年の最終日、2位のプジョー504に乗ったオベ・アンダーソンに対して、私は90 分以上もリードしてスタートした。90秒ではなくて90分だ」

「ところが、ナイロビから400kmのところでまたリアタイヤがパンクしたんだ。その日で3 度目のことで、すでに2 本のスペアタイヤを使いきっていたから、アシストのクルーに連絡を取ろうとした。唯一の方法は、フィオリオが乗る飛行機で無線を中継することだったが、何度やってもつながらない。そこで、デフを守るためにフロントタイヤをリアに取り付け、フロントが下がらないようにコ・ドライバー(ロフティ・ドリュース)が車のリアに乗って、ダートロードが終わるまで10km 走り、そこでロフティを降ろした。彼がヒッチハイクでナイロビへ行って助けを呼んでくる手はずだ。車が通りかかるまで気が遠くなるほど待った。結局、私は2 位だった。いまだに、あのとき飛行機はどこにいたんだと考えるよ」

「ストラトスの優秀さを示す証拠がある。出走は84台で、そのうち最後まで生き残ったのはわずか11 台。ラリー通して1台も失わなかったのは3台が出場した私たちのストラトス・チームだけさ。事前の準備は、エンジンに埃が入らないよう、オイルバス式のエアフィルターを付け加えることだけだった。それで、5000kmのうち4500kmでトップを守ったんだから、大したものだろう」

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Richard Heseltine 

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