ボディのペイント剥離が物語る奇跡の発見|バイヨン・コレクション「マセラティA6G 2000」

1956年マセラティA6G 2000グランスポール・フルア(Photography:Dirk de Jager)



マセラティが長い眠りにつくまで
この車のヒストリーはかなり克明に残されている。まず、シャシーがマセラティからトリノのフルアに送られたのが1956年2月9日。そこで2+2のベルリネッタボディが載せられた。5カ月後の7月6日、フルアを出庫したA6G 2000は再度マセラティの工場に入り、エンジンと内装などが取り付けられた。ファクトリーの記録によればエンジンナンバーは76で、マレリのツインイグニッションを装備、となっている。ボディ色はブラックで、アイボリーの内装とヴェリアのメーターを配したインストルメンツであったことも記されている。ツインイグニッションコイルが強調された理由は何だろうか。類推するに、150bhpの出力で125mph(約201km/h)の最高速を発揮する稀少モデルであったことを意味していると思われる。

完成するとマセラティはただちにフランスに送られ、1956年8月2日に車検をパスしている。同日、アストンマーティンを複数台所有することで知られた建築家、ジャック・フィルダーの名で登録された。彼の支払い額は250万リラとかなりの低額だが、これはシャシーに対してだけの価格であり、フルアからの請求は別にあったはずだ。興味深いことに、この車は数週間後にグラン・パレで開催されたパリ・モーターショーに展示された。マセラティは当時、注文のあった数しか車を製造しておらず、顧客から車を借りて展示していたのだ。その約束がフィルダーとの間でも交わされたのだろう。

フィルダーは1年後の1957年7月12日に友人のパリジャン、マルセル・カラスに車を売却。カラスはそれから2年もたたないうちに売り広告を出すがすぐには売れず、結局1959年12月17日まで待たなければならなかった。それを買ったのがロジェ・バイヨン、というのがこのマセラティの幼年期である。その後車は父から息子のジャック・バイヨンの手に委ねられ、それからの56年間、マセラティは同一の家族のもとで安泰の時間を過ごしたのである。ロジェの孫がアールキュリエルにコレクションの全車を委託するまでの話である。

止められた時計の針
ロジェ・バイヨンはフランス空軍の整備工として人生を歩み始め、第二次大戦後は化学品を運ぶタンクローリーを製造する職に就く。そのビジネスで大成功を収めた彼は古い城を手に入れ、エキゾチックな車だけを買い求め、それをレストアすることを目指した。だが、集めた車の数は彼の能力をはるかに超えていた。いっときは200台を優に超える数だったという。1970年代後半にバイヨン・カンパニーは行き詰まり、事業はストップ、彼も車も人々の記憶から消えていった。古城の車たちは40年以上の間、レストア途上のまま放置されたのだ。それらに再び陽の目が当たったのは2013年にジャックが他界したときだ。まったく公にされなかったコレクションの存在を聞きつけ、現場に駆けつけた人たちは、114台の他に比べようもないほど豊富な車群とその価値に見る目を疑ったという。

その中の1台であるマセラティを見事落札したジョナサン・シーガルは、もちろんフルレストアするつもりでいた。しかしさまざまな事情から断念。それでもジョナサンはマセラティをなんとか走れる状態にまで仕立てたのだが、外装や内装などの補修までは手が回らなかった。しかし結果としてそれがよかった。納屋から発掘されたときのままの姿態は、見る者の奥深くに眠る琴線を呼び覚まし、心を揺さぶる。

編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation:Hidehiko OZAWA Words:David Lillywhite Photography:Dirk de Jager

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