ヴォアテュレット メルセデス・ベンツ W165 ─ただ1回の勝利のために|JACK Yamaguchi's AUTO SPEAK Vol.12

メルセデスのヴォアテュレットW165。これは現在の姿。(courtesy:Daimler Museum/Archive)

『勝つために製作、たった1度のために』私が1966年、米『CYCLE』誌に書いたストーリーのタイトルだ。1959年、浅間2輪レースに出現したホンダRC160、4気筒250ccが題材であった。66年、同じタイトルが適用するグランプリカーと、その創造者のひとりに遭遇することができた。

W165とルドルフ・ウーレンハウト
私がシュトゥットガルトを訪れたのは、1954〜55年のF1/スポーツレーシングカーである、W196/196Sの取材のためであった。ジャーナリストとして戦前日本に駐在した経歴を持つ外国広報部長フォン・ウーラッハ公子(一時期モナコ公国継承権を有した)が、「SLRを走らせる整備をしていますが、時間がかかります。それまで600の生産工場とミュージアムをご案内しましょう」と言い、社内を案内してくれた。

ミュージアムのシルバーアロー群の中にひとまわり小さな1台を見た。1939年リビアの地中海に面する首都、トリポリのヴォアテュレット規則グランプリの優勝車W165であった。「今日は、ルドルフ・ウーレンハウトが研究室に来ているはずですので、寄りましょう」とプリンツ・フォン・ウーラッハが提案。ウンタートリュクハイムの有名な90度バンク脇に建つ社屋の小部屋で、偉大なエンジニアと言葉を交わすことができたのは幸運であった。「空模様がおかしいようですが、SLR、お楽しみください」と、私を歓迎してくれた。

彼は、すでに生産車開発からは離れていたが、排気対策の研究をしていると語った。さらに、彼が1959年に、W165に再試乗したことを知った。

ルドルフ・ウーレンハウトは、1908年、ロンドンで生まれる。父はドイツ銀行駐在員、母は英国人であったので、彼は正統な英語を話した。1931年にダイムラーに入社、メルセデス・ベンツ乗用車開発役員であったフリッツ・ナリンガーの下で頭角を現す。乗用車開発の担当者であったが、1930年代後半のグランプリ・レーシングカーを改良する際には、GPドライバーと同等に、サーキットによっては彼らに勝る速さでマシンを走らせた。

彼が関与したのが1937年GPチャンピオンカーとなったW125、1938と39年のW154、そして『一度だけの勝利のために製作』されたヴォアテュレットのW165である。

第二次大戦中は、二重国籍ゆえにゲシュタポの監視を受けたが、ダイムラーは彼を航空機エンジン部門に配置した。

戦後、ウーレンハウトを一躍有名にしたのは、乗用車コンポーネントを用いた300SLレーシングカーで、これは生産型300SLガルウィング、ロードスターに至る。

そして1954年、シルバーアローがモータースポーツ最高峰挑戦へ復帰するためのマシン、W196・F1、W196Sスポーツレーシングカー開発リーダーの任に就いたのがウーレンハウトなのである。

文:山口京一 Words: Jack YAMAGUCHI 写真:Daimler AG、山口京一 Photo:Daimler AG, Jack YAMAGUCHI

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