不遇の二代目 エドセル・フォード 勝利までの物語

Photography:CHRONICLE / ALAMY STOCK

「歴史はたいがいでたらめだ」これはヘンリー・フォードの有名な言葉だが、その真意は、過去に左右されず今日を生きようというエドセルの意思を代弁したように思えてならない。

エドセル・フォードという名は、個人の名としてよりはフォード社にとって最初の失敗作となる車の名称のほうが有名ではないだろうか。車としてのエドセルは、彼の死後に商品化されたものだけに、名称には使われてもエドセル自身は何の関与もしていない。エドセルの父であり、会社創設者であるヘンリーは、頑固に自分の考えを押し通す性格であり、"エドセル"プロジェクトについても周囲の反対を押し切って推進した。結局はフォード最大の失敗につながるのだが、沈着冷静さと将来を見据えた洞察力、外交的手腕を兼ね備えていたエドセルがもしこのとき生きていたらフォードはこのような事態に陥らずに済んだかもしれない。

ここでは、フォード繁栄の影でひとり悲運をしょって立ったエドセルの生涯を追ってみようと思う。彼は1893 年、ヘンリー・フォードと妻クララ・ブライアントの間に一人息子として生まれた。ハイスクールを卒業するとそのままフォード社に入社、しかし特別扱いはされず、あらゆる職種を経験しながらキャリアを重ねていった。25 歳になるとヘンリーは彼を社長に据えたが、実際はヘンリーが手綱をとった。それというのも、ヘンリーの社長退任は株主との間に起きた争いに対する政治的策略だったからだ。エドセルはまだ会社を任せられるほど成熟していなかったのも事実。ヘンリーが彼に全権を委ねなかったのは、エドセルの仕事の能力に対してではない、美徳感や基本的な性格が社長の器
としてふさわしくないと考えていたからである。本心をいえば、自分自身の生き写し、すなわちクローンのような人間を望んでいたのだ。

しかしそんなことが現実になるはずはない。それどころか、ふたりは対極の人間だった。従業員の報酬についても、当時としては革命的なものだったが、ヘンリーの心の内には自由市場経済の概念が渦巻いており、古い考えから脱しようとしないエゴイストだった。対してエドセルは温和な性格で感性が鋭く、世話好きで社会の声を受け入れられる人物。芸術や文化にも造詣が深く、画家として一目置かれる存在だった。旅が好きで食通でもあった。ヘンリーともっとも違うのは車に対する興味が純粋で、イスパノ・スイザやブガッティT37を所有し、アメリカで初めてMGのオーナーになったのもエドセルである。

ふたりの関係はその後もよいものではなかったが、フォードという組織が重大な過失に陥りそうな判断を父が下そうとしたとき、エドセルが猛然と反対したことで決定的になった。ヘンリーは、人間として、また仕事の面でも息子を罵倒した。ヘンリーの批判の種探しは、自社の悪名高い秘密結社を使ってエドセルの家族にまでおよんだ。ヘンリーが浴びせる罵声はところを構わず、エドセルが役員会議で当時異端の存在だった油圧ブレーキの採用を支持したときも、「エドセル、黙れ!」と激高したという。エドセルはその後自分の自由裁量で会計事務所を立ち上げたが、怒ったヘンリーはその全スタッフを首にしてしまった。

こうした拷問のような仕打ちをとめどなく受けながらもエドセルは、大きな問題が起きたときに被害を最小に押さえる策を考えていた。フォード社はそのとき、ヘンリーが愛してやまないモデルTが旧態化したにもかかわらずニューモデルの投入を拒んだことで、にっちもさっちも行かなくなっていたのだ。エドセルは辛抱強くヘンリーを説得し、もしかしたらこの世に出なかったかもしれないモデルAを誕生させた。結果は、市場に好評をもって迎えられ、彼は勝利した。

戦時中は自動車製造会社も軍への協力を要請された。それをよく思わないヘンリーは最後まで抵抗したが、エドセルは平和裏にヘンリーを説得。そして一夜のうちに、フォードを第二次世界大戦に向けた軍事車両製造をする組織に変えた。それが戦後の発展につながったことは言うまでもない。

エドセルは同時に目立たない部分でも会社を大きく変えた。慈善団体であるフォード財団の設立がそれだ。学校や慈善組織を支援し、デトロイト芸術協会をサポートし、デトロイト工場の壁画で知られるディエゴ・リヴェラの活動も支えている。エドセルの芸術に向けた関心はフォード社のスタイリングコンセプトに結びついており、中でもリンカーン・コンチネンタルは彼のアイデアがもっとも最大限に結実した車である。コンチネンタルが全時代を通じてアメリカン・クラシックのひとつとされているのはご承知のとおりだ。

ヘンリーによるものがすべてとはいわないが、エドセルの中に長く鬱積したものは歳とともに増長していき、やがて胃潰瘍を患う。父の経済的支援もあったが、すさんだ生活、とくに多量の飲酒が潰瘍の原因であり、もはやヘンリーの農場からとれる非殺菌のミルクだけが唯一の治療法となっていた。エドセルはその後ブルセラ病にかかり、胃潰瘍も胃がんに変化していた。1943年5月26日、49歳の若さでエドセルはこの世を去った。彼の息子ヘンリー2 世はヘンリーが死ぬ1947年に社長の座を受け継ぎ、今日フォード社を率いているウィリアム・クレイ・フォードJr.会長も、エドセルの直系の子孫である。

編集翻訳:尾澤英彦 Hidehiko OZAWA Words:Dale Drinnon 

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