プリンス自動車のインサイドストーリー 第1回│プリンスとレース 第二回日本GPまで

資料提供:板谷熊太郎 (Kumataro ITAYA)

古き良き時代。クルマそのものが高嶺の花だった終戦直後から昭和30年代にかけて、日本にも高級車専業メーカーを志した企業が存在した。これは日本自動車史の異端児、プリンス自動車のインサイドストーリーである。

航空機との関わりが深く、クルマの分野でもレース参戦と国家元首専用車の製造という両極端を経験している自動車メーカーは、さして多くないだろう。メルセデスベンツの名は即座に思い浮かぶが、その他となると俄然怪しくなる。実はこの日本にも、かつてはそのような会社が存在した。プリンス自動車である。人々の記憶からプリンスの名が薄れつつある現在、同社の足跡を少しでも残しておきたいと思いたったのが本稿の背景。これから数回に分けてプリンスの実態に迫っていきたい。気軽におつきあいいただければ幸いである。

まずはごくごく簡単にプリンスという会社のおさらいから。



プリンス自動車は第二次大戦後に発足し、1966年、日産自動車に吸収合併されるまで存続した自動車メーカーで、ふたつの航空機製造会社の血が流れている。源流となっているのは立川飛行機。同社は戦時中に航空機の機体を製造しており、1944 年に16,435 ㎞の無着陸飛行世界記録を樹立したキ77長距離連絡機などの製品がある。キ77の他にも与圧キャビンを備えたキ74高高度長距離爆撃機も手掛けていた。それら日本の航空機技術の粋を集めた機体を、終戦直後アメリカに移管する作業に従事していたのが、立川飛行機の試作部門に働いていたスタッフたちで、同社が自動車に転進する際の中核となっている。

この事実から窺い知れるのは、アメリカが技術サンプルとして接収した航空機の設計や試作に携わっていた日本でもトップクラスのエンジニアたちが、プリンス自動車の技術陣を構成しているということ。航空機の分野で世界の頂点を極めた人たちが、敗戦を機にクルマの世界になだれこんでいく、これがプリンスという会社の持つひとつの側面である。プリンスに流れる血のうち、もう一社は中島飛行機。

戦時中、立川飛行機は中島飛行機からエンジンの供給
を受けて航空機を完成させていた。その関係は、立川飛行機がクルマの分野に進出してからも続くことになる。中島飛行機といえば天才の呼び声も高い技術者が思い浮かぶ。若くして誉エンジンの主任技師に抜擢された中川良一氏である。後々ホンダでF1活動の礎を築くことになる中村良夫氏も、中島飛行機時代は中川氏直属の部下のひとりだった。

航空機、なかでも戦争に従事する飛行機の開発は熾烈を極める。他と同じことをしていたのでは、勝てるものはつくれない。技術者たちは否応なく進取の気性が磨かれる。そんな飛行機屋気質は、クルマの世界でもレースにはうってつけである。はたして、プリンスもレースにかける情熱には並々ならぬものがあった。

飛行機屋たちはクルマ屋に転身した当初から情熱的に自動車の開発にいそしんでいたわけではない。そもそも、飛行機が好きでたまらない人たち、それが敗戦を機に日本では好きな飛行機を一切つくれなくなってしまった。当然、意気消沈する。プリンスに務めていた中川良一氏も同様だった。ところが、ある日突然、転機が訪れる。

Words & 資料提供:板谷熊太郎 (Kumataro ITAYA)

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