スピードに命を賭けて│1930年代に世界を魅了した世界

octane UK

1930年代、世界で最も魅力的なコンセプトはスピードであった。ただ、スピード記録への挑戦は大きなリスクをともなう。そして大衆はそのスリルにますます魅了されていった。スピードはいつも命の危険ととなり合わせであった。

世界恐慌まっ只中の1930年代初頭。人々は厳しい日々を一瞬でも忘れられればと、新聞や雑誌、映画、そしてまだ高嶺の花だったが、大きなラジオから伝わる数々の武勇伝に飛びついた。テレビが普及する、まだずっと前の時代のことである。

最先端技術に対する関心が強く、学生向けの書籍には自然エネルギーを凌駕する新技術を打ち立てた新進気鋭の科学者の功績が綴られていた。世界経済さえ回復すれば、とにかく素晴らしい時代が到来するという希望的な雰囲気が漂っていた。そして1930年代、世界で最も魅力的かつ期待されていたコンセプトが、「スピード」であった。現代では速さだけを追求する事は無謀・汚染・無駄と関連付けられ、公共交通の安全性を脅かすものとされている。だが一方でスピード競技においては、今でもスリルとワクワク感を楽しませてくれる娯楽としての発信を求められ、すなわち未だ売上にも繋がるということだ。


 
20世紀で最も技術的社会的に影響を与え
た自動車の大量生産によって、スピードはあらゆる人にとって身近な存在となった。1930年代当時、世の中に話題が乏しい時代だったからこそ、メディアがこぞって取り上げて盛り上げたコンセプト、それが「スピード」だ。「スピード」のネタは確かによく売れた。そして残念だが明らかな事に、「スピード」によって惨事が起き、それが悲惨で悲劇的であるほど、よく売れるという仕組みができた。

当時のスピード王として名を馳せたのは、英国ではナイトの称号を与えられたヘンリー・ティム・バーキンやヘンリー・シーグレーブ。そして彼らの中では唯ひとり生き残りとも言えるマルコム・キャンベルだ。米国においては、バーニー・オールドフィールドやラルフ・デ・パルマなど往年のスター。また新生フランク・ロックハートなどが挙げられる。ヨーロッパ大陸では、イタリアのタツィオ・ヌヴォラーリとアシル・ヴァルツィ、フランスのルイ・シロンとルネー・ドレフュス。そしてドイツのルドルフ・カラツィオラ、ベルント・ローゼマイヤー、そしてハーマン・ラングなどが人気を集めた。



1930年代、レースシーンの主役はアルファロメオやブガッティから、メルセデス・ベンツとアウトウニオンへと移行していった。1934年から39年の間、ドイツのシルバー・アローたちが、グランプリレースの新基準として「スピード」の概念を持ち込んだとも言える。ドイツ勢との直接対決を避けるようにフランス陣営は出場クラスを上げ、一方のイタリアはベチュレッタ(Vetturetta)へと逆にクラスを落とした。しかしその戦略も虚しく、1939年にメルセデス・ベンツは新しい1.5リッターV8エンジンのW165を賞金の多いトリポリGPに投入し、ワン・ツーフィニッシュを収めた。しかし、その後はレースから身を引いたのはご存じの通りだ。

英国では他国と状況がまったく異なり、どのメーカーも真剣にはグランプリレースには取り組まなかった。経営難に陥っていたベントレーは1930年にル・マン24で5つの勝利を飾ったのを最後に、それを翌年にはロールス・ロイスに明け渡した。オースティン、MG、アストンマーティン、そしてライレーなどは、コンパクトなシングルシーターのスポーツカーを投入したのだが、1935年はラゴンダがル・マンに突如現れ、勝利を奪っていった。 しかし、そのようなレースよりも、英国で注目を集めたのは「スピード」だけだった。
 

編集翻訳:数賀山 まり Transcreation: DMari SUGAYAMA Words: Doug Nye

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