関東地方の倉庫で「希少なル・マン参戦カー」が発見される|フォードGT40 Mk.IIBの帰郷

1967年フォード GT40 Mk.IIB"1047"(Photography:Gensho HAGA)



この惨状を目の当たりにしたフォードは、1964年秋、計画推進の拠点をアメリカに移し、コブラなどスポーツカーレースでフォードとの関係が深いキャロル・シェルビーをレースプログラムの運営責任者に据え、体勢の強化を図った。アメリカの首脳陣は、英国サイド(FAV)が主導するマシン開発とレース運営という状況に、隔靴掻痒の感が否めなかったのだろう。だが、FAVからすべてを奪ったわけではなく、1966年からFIAが発効させるグループ4カテゴリー用にホモロゲーション取得用の製作(義務生産台数50台)と、それを購入したカスタマー・チームへの対応、そして新規モデルの開発協力が割り振られた。

一方、アメリカサイドでは、フォード本社が本拠地を置くディアボーン(ミシガン州)にカー・クラフト社を設立すると、FAVからロイ・フェランを呼び戻し、マシンの開発に着手した。フェランとシェルビーは、4.7リッター"289"に代え、ストックカーレースで実績があり、大きなパワーが見込める7リッター"427"エンジンの搭載を決断し、後にGT40 Mk.IIの名で知られることになるマシンの開発を急いだ。

1965年シーズン開幕戦のデイトナ・コンティネンタル2000kmでは、フォードGTとしては初めてとなる優勝を果たしたほか、3位にも入るという幸先のよいスタートを切ると、続くセブリングでは2位を占めた。そして臨んだル・マンではまたもや敗退を喫し、翌シーズン向けのGT40マークIIの熟成に着手した。

1966年シーズンから、開幕戦のデイトナが24時間レースに改められたことで、ル・マンの前哨戦といえる存在となった。Mk.IIは、デイトナで1、2、3位でフィニッシュを果たすと、続くセブリング12時間でも1位と2位を占めた。第3戦のスパ・フランコルシャンではフェラーリの後塵を拝するものの2位に入り、戦闘力の高さを実証してみせた。そして"本命の"ル・マンでは1位から3位を独占し、フォードにとって初のル・マン優勝を果たした。

翌1967年には、新規投入のMk.IVがワークスチームの主力マシンとなり、改良型のMk.IIBがそのバックアップカーに回る体勢となった。Mk.IVはル・マン史上初となる走行距離5000kmを超える圧倒的な速さを見せて、フォードは2連勝を果たした。

まさに"バーンファインド"だった
私たちの前にある、ゴールドに輝くMk.IIBは、前述したように、1974年11月7日にあるエンスージアストによって空路輸入されたものだ。1966年ル・マンに新車で投入され、赤いボディカラーに白いストライプをまとってダン・ガーニー/ジェリー・グランド組のドライブでポールポジションから出走(227周リタイア)。1967年には、ホルマン・ムーディー・チームから、フランク・ガードナー/ロジャー・マクラスキーのドライブで出走するというヒストリーを持っている。

輸入間もなく、前述したFISCOでの取材を受けてから、車検取得のための作業に入ったものの、それ以降、ほぼ走らぬまま関東地方の某所でずっと眠りについていた。2001年頃に倉庫の中でそれを目にしたのは、アメリカ車に造詣が深いスペシャリスト、Super Craftを営む山田氏であった。倉庫内に押し込まれたそれは、エンジンやトランスミッションが取り外され、ボディは埃で覆われていたが状態は悪くはなかったという。すぐさま買い取り交渉に入り、紆余曲折を経て、現在のオーナーの元に引き取られた。

取材協力:山田泰人氏_Super Craft 文:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Words:Kazuhiko ITO(Mobi-curators Labo.) 写真:芳賀元昌 Photography:Gensho HAGA Translation:Andrew J. Pawlikowski

無料メールマガジン登録   人気の記事や編集部おすすめ記事を配信         
登録することで、会員規約に同意したものとみなされます。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事