世界のラリーシーンを席巻したストラトス│ラリーのために造られた車

Photography:Matthew Howell

おそらく世界で最もオリジナルのままといえるランチア・ストラトスを紹介しよう。使い込まれた雰囲気がなにより心地よさを感じさせた。

目の前にはパノラマビューが広がり、後方では正確無比なフェラーリV6エンジンが唸りを上げ、頭にガンガンと響きわたる。薄っぺらなクッションを持つシートのポジションは低く、まるでフロアに直接座っているような感覚だが、意外にも乗り心地はいい。床下からは懸命な努力を続けるサスペンションの音が聞こえてくる。

ドライバーはひどく緊張している。車の挙動が落ち着かないのだ。その程度は尋常ではない。ステアリングが異様に軽くクイックで、手首のほんのわずかな動きでノーズが即座に向きを変える。その上、タイヤは地面の形を忠実になぞり、巡航ミサイルのようにひたすら低い方へと進もうとする。このまま放っておいたら行き着く先は側溝だから、一瞬も気を抜くことはできない。ステアリングを握る手に力が入り、集中の度合いはレッドゾーンに達する。

だが、車に秘められたパフォーマンスはこんなものではない。エンジンは回転を上げたがり、明らかな車体の軽さも加わって、ドライビングの喜びに浸り込んでしまえと誘いかけてくる。思わずその求めに応じたくなるが理性を失ってはいけない。この魅惑的な恐るべき車でスピードを追求できるのは、チャンピオンクラスのラリードライバーだけだ。こんな車はランチア・ストラトスをおいてほかにない。



ストラトスがラリーを席巻していた時代を知らぬ若輩者には、こんなにスタイリッシュで美しい車が、タフなラリーに参戦できるとは信じられないだろう。ラリーカーといえば、岩だらけのギリシャの悪路や、雪に埋もれたスウェーデンの裏道を切り開いてゆく、筋骨隆々たる車というイメージがある。対してストラトスは、どう見てもスムーズな舗装路を飛ばして楽しむミドシップのスポーツカーだ。

だが、世界でもトップクラスの魅力的な2座クーペのデザインだけに惑わされてはいけない。ストラトスに課された唯一の使命はラリーでの圧倒的な勝利だった。1970年代、チェーザレ・フィオリオ率いるランチアのコンペティション・デパートメントは、ストラトスで国際的なラリーの舞台を完全支配することに集中した。全戦全勝が望ましかった。そうでもしなければ莫大な開発コストを正当化できなかったからだ。

ストラトスはラリーステージで戦うために白紙から設計された車であった。それは量販によって開発コストを賄えないことを意味していた。ストラトスは"ホモロゲーション・スペシャル"という言葉のまさに究極形だった。のちのグループB時代に、スペシャルステージに特化したモンスターマシンが続々と誕生することになるのも、ストラトスの成功があったからこそといえよう。現在でも、スポンサーカラーをまとったラリー仕様であろうが、プレーンなロードカー仕様であろうが、ストラトスが停まればどこでもすぐに熱狂的なファンに取り囲まれる。

そもそも、こうしたコンセプトの車をランチアの経営陣、いやフィアットの経営陣が許可したこと自体が驚きだ。1970年には、ランチアはすでにフェラーリとともにフィアットグループの傘下にあった。

メーカーにとってラリーの意義とは、ショールームで販売する商品とよく似た車で参戦できる点にある。だが、ランチアのショールームには(ほかのどのメーカーにも)ストラトスのような車はなかった。FIAのホモロゲーション取得のために最低500台(計画当時)のロードカーを製造する必要はあったが、それでは実車で客を惹きつけたいと考えるランチアのディーラーを納得させられる数ではない。



1970年当時、ランチアでは量産モデルのベータ・クーペが完成間近の段階にあった。ストラトスと共に参戦できるようラリー仕様車も開発されたが、モータースポーツ予算の大半が注ぎ込まれたのは、あくまでストラトスだった。ストラトス誕生の背景には、信じられないほどの幸運が重なっていた。1969年にチェーザレ・フィオリオがランチアのスポーティングディレクターに就任したことが、その最たるものだ。フィオリオはそれまで、ランチアのモータースポーツをフリーランスとして率いていた。

ランチアとの関わりはそのはるか前にさかの
ぼる。父のサンドロはランチアの広報マンで、元ラリードライバーだった。父の情熱を受け継ぎ、ラリーのルールを隅々まで知り尽くしていたフィオリオの熱意と固い意志があったからこそ、ストラトスは数々の困難を乗り越えてスタートラインに着くことができたのである。

だが、フィオリオひとりでは実現は不可能だった。ストラトス誕生のもうひとりのキーマンが、1969年末にランチアの社長としてフィアットから送り込まれたピエルーゴ・ゴッバートだ。ゴッバートに課されていたのは、落ち込んだランチアの売り上げ回復とコスト削減だったが、ランチア・ブランドのラリーカーで会社のイメージアップを図るというフィオリオの計画にも親身に耳を傾けた。のちに、渋るエンツォ・フェラーリに対して約束通り500基のディーノ2.4リッターV6エンジンを供給させたのも、ゴッバートの巧妙な政治的駆け引きだった(訳註:ピエルーゴの父親であるウーゴ・ゴッパートは1930年代にアルファロメオ社長を務め、アルファのレース監督であったエンツォ・フェラーリの上司に当たる。だが、フェラーリはゴッパートとの確執からアルファを去って、独立することになる)。

1960年代のランチアの売り上げ低迷も、ストラトス誕生の一助となった。研究開発がほぼ停止状態だったため、時代遅れになりつつあったフルヴィアHFクーペに代わるラリーカーについてフィオリオが考え始めた頃には、後継車が存在しなかった。そこでフィオリオは、パーパスビルドのラリーカーを造れば、ランチアを内外から活性化する起爆剤になり、技術革新という会社の伝統もアピールできると考えた。

フィオリオがフルヴィアの後継車を考え始めるきっかけとなったのが、ルノーエンジンのアルピーヌA110の台頭だった。アルピーヌA110はリアエンジンの小型クーペながら、その速さで1960年代中盤から国際ラリーを席巻し続けていた。過酷なイベントでの脆さがなければ、さらに多くの栄冠を獲得していたことは間違いなかった。1968年にルノーがアルピーヌを買収してからは、研究開発に多くの予算が投じられるようになった。フィオリオは、A110の真のポテンシャルが現実のものとなり、フルヴィアでは対抗できなくなる日も近いと危機感を抱いていた。

予想に反して、1965年から競技を続けてきたフルヴィアHFにも力は残っていた。国際ラリー選手権の最後となった1972年には、アルピーヌ・ルノーを破ってフルヴィアがタイトルをランチアにもたらした。これには誰もが(特にアルピーヌ・ルノーが)驚いた。さらに1974年には、ストラトスがホモロゲーション取得を待つ間に、フィアット・アバルト124ラリーを敵に回してフルヴィアが貴重なポイントを積み重ね、シーズン途中でデビューしたストラトスが、この年のタイトルをランチアにもたらすことに貢献した。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Richard Heseltine 

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