ストラトス誕生のキーマンに聞く│レースに関わる者の夢そのものであるマシン

octane UK

チェーザレ・フィオリオは、レパルト・コルセ・ランチア(レース部門)を立ち上げから率い、その指揮の下でチームはあらゆるタイトルを勝ち取った。引退した現在は、南イタリアのプッリャ州に住み、マッセリア(農場と併設するホテル)を経営している。訪れる人々は美味しい食事と飲み物を楽しみ、時には車談義に花を咲かせる。

「ストラトスはどうしても必要だった。私の仕事は勝つことだ。ご婦人のショッピングに最適なフルヴィアで、私たちは奇跡を起こしていたが、ある日、もうたくさんだと思ったんだ。それで、チームの全メンバーに、新しいラリーカーに求める条件を聞いて回った。すると、どんな仕様にすべきか簡単にまとまった。ベルトーネとガンディーニがすべてを美しい形に包み込む仕事をやってくれた。エンジンをフェラーリに頼んだら、いい関係があったおかげで了承を得られた。さらに、チームにはその時代最強のドライバーが揃っていた。私は大船に乗った気持ちだったよ。ところが、大間違いだった」

「私の考えが足りなかったのは政治的な争いだ。フィア
ットの中間管理職の中に、私やストラトス・プロジェクトに反対するグループがあった。彼らはペゼンティ家がランチアをフィアットに売却する以前に、レースでランチアに叩きのめされたことを、まだ根に持っていたんだよ。技術的な問題でプロジェクトをやめさせようとした(代わりにX1/9を推し進める計画だった)。状況を打開するため、私はさらに上、フィアットの当主、ミスター・アニエリその人に助けを求めなければならなかった。それがストラトス・プロジェクトの中で最大の難関だった」



「これは強調しておきたいんだが、成功していたストラト
スを数年で打ち切って、量販車のフィアット131にスイッチする決断は、まったく別の考えからだった。レース部門というのは、レースを楽しむためのものではなく、車の販売台数を増やすための武器なんだ。ストラトスがあまりに優秀だったので、ライバルは次々に撤退を決めた。営業部長のニーズに応えるには、倒す相手が必要だ。その点、131はうってつけだった。ようやくランチアを倒すことができるとライバルの出現と思わせ、また参戦させれば、ラリーキラーとして造られたわけではない車でもやはり勝てるのだと示せるからね。ストラトスを打ち切るときに、これで最高の車を失うのだということは分かっていた。あらゆる場ですべてに勝利する力があった。グラベルでもサーキットでも、ツール・ド・フランスのように公道とサーキットが半々のレースでも」

そんなストラトスとの思い出の中で、特に心に残るものを聞いた。
「それには、ボトルを開けて腰を据えないと。話しきれないほどあるからね。ストラトスは、レースに関わる者の夢そのものだった。勝利のために白紙から開発した。あの車と、それをドライブしたドライバーたちとの思い出は数え切れない。ランチアは最高のチームで、最終的には最強のドライバー全員と組めた。たとえ永遠の命があっても絶対に忘れないだろうと思うのは、ムナーリとモンテカルロで初めて優勝したときのことだ。3台エントリーし、それぞれに優勝する力があった。だが、初日の夜、先はまだ5日もあるというのに、もう2台をヒューマンエラーで失ったんだ。それからの5日間は針のむしろだった。勝利に向かって走るムナーリを見ながら、最悪の事態を心配し続ける、その重圧と言ったら。フィニッシュラインを通過したときの安堵感は今も忘れられない。ムナーリも同じ気持ちだった」

「ムナーリとは、サファリで敗北の悔しさも分かち合った。
彼がパンクで助けを求めたときに、私はいるべき場所におらず、アシスタントクルーに無線を中継する仕事を果たせなかった。2位に対して90分もリードしており、20分で解決できるようなトラブルだった。彼のいう通りだよ。でも、レース進行が2時間遅れていたせいなんだ。朝、全車が再集合してからスタートすると主催者が決めたからだ。私が乗っていたヘリは日没前に着陸しなければならなかった。規則だから、日没後も飛び続けたらパイロットはライセンスを失う。新記録じゃないかと思うが、ムナーリが3回立て続けにパンクしたときに私がいなかったのは、そういう訳なんだ」

「どんな将軍も敗北を知っている。私もそうだ。あるラリ
ーで、上りは12kmの乾いた路面、続く下りは同じ距離の凍結路というスペシャルステージがあった。私は峠の頂上でタイヤ交換をすることにした。圧縮エアを使った新しいホイールガンを使えば、5本のボルトをいっぺんに外せる。練習すると、メカニックは40秒ほどで作業を終えた。これでライバルをすべて倒し、ストラトスでまた勝利が手に入ると確信したよ。昇りの道は指揮を執りながら興奮を抑えられなかったのを覚えている。有頂天だった私は、待っている間も凍えるような寒さを感じなかった。ついに1台目が到着した。ところが、ホイールガンがすぐに止まってしまった」

「気温は20度以下で、エアホースが凍ってつまってしま
ったんだ。いまだにホイールガンの音を覚えているよ。いつものドルルル…という音が、ギィーッといったまま静かになった。メカニックは私を見たよ。結局、ボルトを全部手動で外さなければならなかった。その間に2台目が到着し、やがて3台目も来た。私たちは、まるで休日の田舎のガソリンスタンドみたいだった。そのときドライバーが私に向かって言った"礼儀正しい"言葉も覚えているよ。ストラトスは本当に素晴らしい車だったから、このあやまちも乗り越えた。私もしばらくは1台所有していたんだ。サンドロ・ムナーリが1975年のモンテカルロで優勝した車だ。だが、車というのは面倒を見てやらなきゃならない。結局、しばらくして譲ってしまった。今は後悔しているよ。このマッセリアにある"モータールーム"に飾ったら最高だっただろう」

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Richard Heseltine

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