当時を知る元社員に聞くアストンマーティンDB6のインサイドストーリー

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1965年のアールズコートには、アストンマーティン自慢の最新グランドツアラーに並んで、さらに魅惑的なモデル、ショートシャシー・ヴォランテが展示されていた。DB5の生産終了後に残った37台分のシャシーに325bhpの新しいヴァンテージ仕様エンジンを搭載して、コンバーチブルに仕立てたものだった。これを引き継いだDB6ヴォランテは、翌66年10月にやはりアールズコートで登場した。

クーペとまったく同じスペックながら、電動ソフトフードを装備したDB6ヴォランテは、アストンのコンバーチブルの中で戦後最も人気の高いモデルとなった。ところが、1967年初頭にアストンマーティンの売上は激減する。政府の金融引き締め政策が高級車市場に大打撃を与えたからであった。アストンでは従業員の半数が余剰人員となり、150台余り(10カ月分の生産台数)が売れ残ってしまった。そこでディビッド・ブラウンは、DB6の価格を1000ポンド引き下げるという策に打って出る。これが見事に当たり、在庫は2週間で売り切れ、注文台帳は再び一杯になった。

こうして1467台を製造(ヴォランテが140台、ハロルド・ラドフォードとFLMパネルクラフト製造のシューティングブレークが数台)したのち、1969年8月にMk2が発表された。価格は初代より34ポンド安い4833ポンドであった。識別点はホイールアーチに小さなフレアが付いたことだ。これは、1967年に発売されたDBSと同じ少し幅が広いホイール(スピナーが2枚羽から3枚羽に変更)を収めるためだった。機構的にはほぼ従来通りだが、Mk2ではZF製パワーステアリングが標準装備となった(後期はアドウェスト製に変更)。また、追加に299ポンド支払えば、ヴァンテージ仕様のキャブレターを、コンピュータ制御のAE-ブリッコ製燃料噴射装置に変更することができた。これは英国車で初めての燃料噴射の導入例だった。燃費が20%向上したものの、実際に装備されたのは46台に留まった。車内ではDBSのシートの採用が新しい。



チャプマンはこう話す。「Mk2はMk1より洗練され、走りもよくなりました。私はMk1には少々整えるべき点があると感じていましたが、まさにその点が修正されたのです」

Mk2が登場するとすぐ、社長のスティーブ・ヘギーに地元のバッキンガムシャー州警察から「DB6を貸与してほしい」と依頼があった。へギーはこれを断ったが、あとになって悔やんだかもしれない。高速道路でこの州警察に捕まり、速度違反キップを切られてしまったのだ。DB6の生産は1970年11月に終了した。Mk2は278台が製造され、うち38台がヴォランテだった。この間にDB6の別バージョンが生まれる可能性もあったが、実を結ばなかったことを私たちは感謝すべきかもしれない。この話をチャプマンが教えてくれた。

「ウィリアム・タウンズ(DBSとラゴンダのデザイナー)が、
角張ったヘッドライトを備えたDB6の試作案をデザインしました。角張ったライトは自動車業界で流行りつつあったのでね。私が『こいつはひどい』といったら、彼は『それが君の本心かい』といいながら部屋から出て行ってしまいました。彼のオフィスでデザイン画を探してみたら、なにも痕跡が残っていませんでしたよ。始末したのでしょう」

代わりにタウンズはDBSをデザインした。それが後にV8となり、さらにはV8ヴァンテージへと進化して、1989年までの長きにわたって生産されたのである。その話はまたの機会にしよう。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.)  Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Paul Chudeck

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