繊細さとパワーを兼ね備える偉大なコンペティションカーの真髄

Photography: Jamie Lipman

アストンマーティンを語るときに、しばしば"POWER"、"BEAUTY"、"SOUL"という言葉が使われる。美しさの中にみなぎる力を備え、勝利に向かって立ち向かう執念を持った車といえようか。この言葉が最も相応しいモデルといえば、1950年代にサーキットで成功を収めたDB3Sにとどめをさす。

DB3Sが活躍していた当時、イギリスや欧州大陸のサーキットは野蛮なものだった。コースの脇には樹木が生い茂り、バリアーもせいぜい干し藁を束ねたストローベイル程度だけで、死と隣り合わせであり、モータースポーツの安全性への配慮はなきに等しかった。

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私たちは、これとは対局にある現代のサーキットにDB3Sとともにいた。緩やかな上り坂に差し掛かると、DB3Sの発する野太いエグゾーストが周囲に響きわたった。その咆哮は400m先のパドックにも届いたことだろう。次の瞬間、私のDB3Sは2名乗りのポルシェに追い越され、ひどく驚いた。彼らはもっと近くでDB3Sを見ようと近づいてきていたのだ。ピットにアストンを差し入れると、ちょうどマクラーレンのテストチームがコースアウトして行くところだった。



サーキットは賑わいを見せてきたようだ。こうした環境の中で300万ポンドもの保険が掛っているDB3Sに乗るのは気を使う。困ったことだが、今日、大多数の人々にとって価格がその車の魅力を計る尺度になってしまった。価格だけに焦点が当たるあまり、本来は最も重要な要素であるヒストリーなどが見落とされがちとなった。だが、私たちの目の前にあるDB3Sはこの保険額に相応しい歴史的価値がある。DB3Sというモデルの"重要度"を計るためには、戦後のアストンマーティンが置かれた危機を振り返る必要があろう。

英国の企業家であるデイヴィド・ブラウンは、1947年のある日、ザ・タイムズ紙に掲載された"高級自動車会社、アストンマーティン社を売りたし"の広告に目を留めた。ギアなど、自動車とも関連のある工業製品を手掛けていたブラウンは、経営難に悩む同社を2万500ポンドで、次には5万2500ポンドでラゴンダ・モーターズ社を買収した。これで伝統ある2社のスポーツカーメーカーと、ラゴンダ製の優れたDOHC直列6気筒2.6リッターユニットが手に入った。ブラウンは両社を統合して、アストンマーティン・ラゴンダ・リミテッドを組織すると自らが営む企業グループの傘下に収めた。

ブラウンは、第二次大戦中に中断していたル・マン24時間レースが1949年に復活することを知ると、ル・マンへの復帰を宣言し、3台からなるワークスチームを組織した。そのうちの1台はDB2にラゴンダ製6気筒エンジンを搭載した特製モデルで、2台はアストンマーティン製の4気筒2リッターエンジン搭載車であった。だが、期待された6気筒モデルは冷却水漏れを起こして早々に戦列を離れてしまった。

翌1950年ル・マンでは、ワークスDB2が5位と6位で入賞するなど好成績を収めていった。1950年シーズン後半になると、さらに競争力を高めるべく、ドイツ人技師のロベルト・エベラン・フォン・エーベルホルスト博士を招聘した。博士はフェルディナント・ポルシェの設計事務所に在籍していた1937年ごろ、ポルシェ博士の右腕としてアウトウニオン・グランプリカーの設計を手掛けたことで知られていた。彼はアストンマーティのチーフエンジニアの座に就くと、新しいDB3を手掛け、グッドウッド9時間耐久レースで勝利に導いた。だが、エーベルホルスト博士は充分に能力を発揮できないまま失意のうちに計画から離れた。
 
シニアデザイナーのウィリー・ワトソンは、
車重が嵩んだDB3の小型化と軽量化を果たすべく、鋼管ツインチューブ・ラダーフレーム構造は踏襲したものの、レイアウトや鋼管の肉厚についても見直しを提案。アストンのフランク・フィーリーがDB3Sのボディデザインを手掛けた。



フィーリーはこの経緯について歴史家のク
リス・ニクソンに以下のように語っている。「DB3の冷却には問題があり、DB3Sではボディワークを変更することで解決しています。ラジエターとエンジンの間にヒートシールドを入れ、熱気をフロントタイヤの後方から逃がすように考えました。そのため、フェンダーサイドを切り取ったような形状にしたのです。あのサイドのスタイルはこうして生まれました」

DB3Sのシャシーは、DB3より6インチ(152mm)短い2210mmのホイールベースを持ち、サスペンションはDB3と同様の4輪トーションバー式、リアはド・ディオンであった。車重は912kgから839kgへと軽量化を果たし、直列6気筒DOHCユニットは2.6リッターから2.9リッターへと拡大を受け、5500rpmで182bhp(後に237bhp)を発揮した。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:数賀山 まり Translation: Mari SUGAYAMAWords: Richard Heseltine

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