繊細さとパワーを兼ね備える偉大なコンペティションカーの真髄

Photography: Jamie Lipman



DB3Sの初号機は1952年から53年の冬期に造られた。ジョン・ワイア監督は5月にチャーターホール・エアフィールド・サーキットで開催されたレースをデビュー戦に選び、レグ・パーネルが見事優勝を果たした。続いて出場したル・マンでは、出走した3台ともリタイアするという惨めな結果に終わったものの、グッドウッド9時間とツーリスト・トロフィーを含む残る5つのレースではクラス優勝を果たした。

だが、こうした幸先のよいスタートを切ったDB3Sであったが、コンペティション部門で次々と新規プロジェクトが立案されたことで、DB3Sの1954年シーズンに向けたステップアップに悪影響がおよんだ。DB3Sのパワーを増強するために、直列6気筒ユニットにスーパーチャージャーを備えることと、ツインプラグヘッドの導入が検討されたが、これらが実現せずに終わったのである。

また、フィーリーは空気抵抗の低減を図ろうとDB3Sクーペを製作したが、オープンボディと比較してもトップスピードは大きく上がらず、むしろリアがリフト気味となった。同時に、デイヴィド・ブラウンの個人的なプロジェクトとして推進していたラゴンダ4.5リッターV12レーシングスポーツカーの開発にかかわる金銭的負荷が大きかった。

1954年は不振のシーズンを送った。ル・マン24ではラゴンダV12が25周目でクラッシュ。2台のDB3Sクーペは失格し、3台のオープンモデルもアクシデントやマシーントラブルでリタイアに終わった。そうした不遇のシーズンを送ったのにもかかわらず、アストンマーティン・ラゴンダ社は、DB3Sをロンドン・モーターショーに展示し、同年11月に量産を開始すると発表した。基本モデルの価格は£2600(税込み£3694)で、ライバルのジャガーDタイプと比べるとユーザーにとっては費用対効果が悪かった。なぜならDタイプの方がパワーで勝り、ディスクブレーキも備え、しかも価格は£1895(同£2865)と安価だったのだ。DB3Sはといえば、鋳鉄製シリンダーヘッドにシングルプラグ、ツインチョーク・ソレックス・キャブレターで、ブレーキはまだドラム式だった。

フィーリーは1955年シーズンに向けてDB3Sのボディを見直し、ラジエターのインテークを縮小するとともに、シート後方のボディ形状をスムーズな形状に改めた。もともとDB3Sは美しい車だったが、1955年モデルは自動車史の中でも傑作とも言える域に達した。ワイアホイールをボラーニ製として、ボディにはアーチ状のデザインを加えた。6月のル・マンでは、このアーチに識別のために色分けを施した。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:数賀山 まり Translation: Mari SUGAYAMAWords: Richard Heseltine

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