繊細さとパワーを兼ね備える偉大なコンペティションカーの真髄

Photography: Jamie Lipman



1955年シーズンはライバルの追撃を受けながら健闘し、何度かの勝利を手にし、6月のル・マンでは、ピーター・コリンズ/ポール・フレール組が総合2位(クラス1位)を果たし、8月のグッドウッド9時間ではピーター・ウォーカー/デニス・プーア組が優勝を果たし、3位も得ている。

1956年にはレギュレーションが改訂され、スポーツカーにはコクピットの全幅をカバーするウィンドウスクリーンと、左右にドアを設けることが義務付けられた。

「1956年は、DB3Sのフロントを改良し、ヘッドフェアリングを追加しました。さらにヘッドランプにガラスカバーを被せようと考えたのですが、これは光への影響が懸念されるので断念したのです。このような案件は、一度は却下されても、その翌年に導入されることが多いのです」とフィーリーは語っている。1956年シーズンは、3月のセブリング12時間レースで開幕。スターリング・モス/ピーター・コリンズ組がレースの4分の1を終えた時点で4位を走っていたが、オイルポンプのトラブルでリタイアに終わった。これはレグ・パーネル/トニー・ブルックス組のDB3Sにも発生し、彼らも9時間で戦列を離れた。キャロル・シェルビー/ロイ・サルバドリ組は2速と3速のギアが使えない状態に陥りながら、なんとか総合4位、3リッタークラスでの優勝を果たした。

その後も、チームマネージャーのジョン・ウィアは勝率の高いレースを選んで参加し、いくつかの勝利を得ている。1956年ル・マンは通常の6月ではなく7月後半に移動、アストンマーティンは最新のDBR1( 2.5リッター 6気筒DOHC)を投入し、ブルックス/パーネル組に委ねた。DB3Sにはツインプラグヘッドとディスクブレーキを備えてアップデイトすると、ウォーカー/サルバドリ、モス/コリンズ組の2台を持ち込んだ。

モス/コリンズ組のDB3Sは、エキューリ・エコッスのジャガーDタイプに乗ったロン・フロックハート/ニニアン・サンダーソン組と激しく競っていた。もう1台のDB3Sは、ウォーカーが朝方の午前7時半にクラッシュで、DBR1は20時間目にエンジントラブルで戦列を去った。アストンの勝利は、トップ争いを続けるモス/コリンズ組に掛かっていたが、パワー低下による燃費悪化という問題を抱えていた。そうした状況ながら死力を尽くしたモス/コリンズ組は、ジャガーに1周遅れの総合2位という好成績でゴールラインを越えた。DBR1の熟成が進むと、次第にDB3Sの登場回数は減っていったが、1957 年のル・マンでは、DBR1と最新のDBR2が揃ってリタイアするなかで、ジャン・ポール・コラス/ジャン・ケルゲン組のDB3Sが総合11位、3リッタークラス優勝を果たした。


 
ここにご覧に入れるDB3Sは、元ワークスカ
ーの最終号車で、本番のレースでは使用されなかった。ワークスカーはDB3 S/1 からDB3S/11までの11台で、このほかDB3S/101からDB3S/120までの20台のカスタマーカー(市販モデル)が製作された。

アメリカ人ドライバーのロド・カーヴェスは、1957年シーズンに向けてDB3Sのワークスカーを手に入れたいとジョン・ウィアに打診。このオファーを受けたウィアはDB3S/11を販売することにし、ボディをブラックに塗り替えたうえで、1957年8月にカリフォルニアに送った。カーヴェスはジョージ・コンスタンティンと組み、9月にエルクハート・レイクで行われたロード・アメリカ500に出場して9位に入っている。その後もパームスプリングス、ラグナ・セカ、ナッソー・スピード・ウィークで走らせた。シーズンを終えると、DB3S/11はイギリスに戻り、ボディとメカニズムにアップデイトが施された。
 
1958年は4回しかレースに出場せず、翌
1959年4月のレースを終えるとオーストラリアへ送られ、マウント・パノラマのイベントでは総合優勝を果たした。再びアメリカに戻ったDB3S/11はロードカーとして整備された後、1963年のペブルビーチ・コンクール・デレガンスで賞を獲得している。その後、サンフランシスコのフランク・ウィンストンの手に渡ったが、彼はこのアストンをクラッシュさせ、命を落としてしまった。無残に壊れたDB3S/11であったが、シャシーとほぼ無傷で残った駆動系は、アストン・エンスージアストの間を転々とした後、マーティン・マクグローンがレストアを完了させ、復活したDB3S/11は1990年代からアストンマーティン・オーナーズクラブ(AMOC)の常連となった。その後、ヒストリックカー・ディーラーのグレガー・フィスケンが入手し、2012年のミッレミリアに出場している。

コンペティションカーでは、なにより勝利のための機能が重視されるが、フランク・フィーリーにとっては違っていたようで、DB3Sは1950年代のレースカーの中では最もエレガントなモデルに仕上がっているといえよう。想像よりもかなり小型だ。太めのボラーニのホイールと2個のエアダクトは、完成度を高める装飾となっている。

薄いドアを開いて乗り込み、細いウッドリム・ステアリングホイールを前にすると、車の寸法の割にはコックピットが広いことに気付かされ、DB3Sのフットスペースには余裕がある。実用的なマットブラックにペイントされたダッシュボードには大径のレヴカウンター、黒縁の各計器類やスイッチ類、ヒューズボックスを配し、短めなシフトレバーには誤ってリバースに入れないためのガードを備えている。

スターターを押すと、咳払いのような音から徐々に荒々しいノイズへ変わっていった。スロットルは低回転でのみピックアップが不調だが、クラッチペダルは軽く、操作は楽だ。ステアリングは想像よりも軽く、ダイレクト感がある。デイヴィド・ブラウン社製の4段ギアボックスのシフトは容易だ。

エンジンが充分に温まったことを確認して、ギアを2速に送り込むと、レヴカウンターの針が瞬く間に振り切れそうになる。4000rpmを超えると、篭っていたノイズが一気に高まり、6000rpmに達するとキャブレターが空気を勢いよく吸い込み、コクピットに座る私の顔面は風で変形する。

DB3Sは繊細さとパワーの両方を備えるが、当然ながらそれを引き出すためにはドライバーの腕が不可欠だ。たとえば、ジャガーCタイプなら不安のないドライブが楽しめる。だが、アストンを本気で飛ばしてみると、スロットルには安定感を覚えるのに対して、ブレーキには多少の不安を感じる。走っていると次第にコクピットは排気熱で熱くなる。紛れもなくコンペティションカーだ。

ヒストリックカーのドライブに慣れている人であればDB3Sを充分に扱えるだろう。だが、ちょっと遠出をしただけでも、モスやブルックス、サルバドリがどれほど偉大な男だったかを思い知るだろう。24時間、あるいは1000km以上もの距離を走り続けためには、腕以外に相当な体力が必要なのである。

まさにDB3Sは、"POWER"、"BEAUTY"、"SOUL"を備えた偉大なコンペティションカーなのであった。

1956年アストンマーティンDB3S
エンジン:2922cc、直列6気筒、DOHC、ウェバー製ツインチョークキャブレター×3基、
シングルプラグ(後にツインプラグを採用)
最高出力:210bhp/6000rpm 
変速機:前進4段MT+後退、後輪駆動
サスペンション(前):トレーリングアーム、トーションバースプリング、油圧ダンパー
サスペンション(後):ド・ディオン・アクスル、ツイン・パラレル・トレーリングリンクアーム、横置きトーションバースプリング、油圧ダンパー
ブレーキ(前):ガーリング製ディスク、(後):ドラム 
車重:839kg
ボディサイズ:全長3910×全幅1500×全高1040mm 
ホイールベース:2210mm
最高速度:140.6mph(226.3km/h)( Autosport誌1956年2月ロードテスト値)

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:数賀山 まり Translation: Mari SUGAYAMAWords: Richard Heseltine

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