プリンス自動車のインサイドストーリー 第2回│プリンスとル・マン

文・写真提供:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA)

古き良き時代。クルマそのものが高嶺の花だった終戦直後から昭和30年代にかけて、日本にも高級車専業メーカーを志した企業が存在した。これは日本自動車史の異端児、プリンス自動車のインサイドストーリー。

前回は昭和39年(1964年)5月2日と3日に開催さ
れた第二回日本グランプリのところで終わっていた。急仕立てのスカイライン2000GTが曲がらなかった話。今回はその直後、すなわち1964年の6月から始まるR380誕生秘話である。

今日でも有名なスカイラインとポルシェ904のエピソードの舞台となった第二回日本グランプリの翌月、プリンスはルマンの視察およびレーシングタイヤと高性能気化器の買い付けを主目的に田中次郎氏と榊原雄二氏を欧州に派遣する。

出張期間は6月18日から7月8日までの三週間、最初の訪問地はフランスのルマンだった。ルマンの視察に併せて、彼らは日本ダンロップからの助言に従いダンロップのレーシングサービス部門を掌るキーマンをルマンの現場に訪ねている。その際、忙しいダンロップのマネージャーの労をねぎらうべく、日本から鉄製の重たい灯篭を複数ルマンの現場に持参し、日本人らしい心遣いをみせている。わざわざ日本から運ばれてきた重たい燈篭が功を奏したのか、日本向けダンロップのレーシングタイヤはプリンスが一手に仕切ることになった。したがって、以後しばらくは日本のライバルたちも貴重なダンロップのレーシングタイヤはプリンスから分配を受けなくてはならなくなった。



ルマンの後、プリンスからの一行は英国に渡り、ロータス、ボルグワーナー、コスワース、そしてブラバムなどを往訪する。

最初の訪問地ルマンでプリンス一行の脳裏に強く焼き付けられたのはプロトタイプレーサーの活躍であった。ルマン24時間を目の当たりにした彼らのなかに、これからのレースはプロトタイプが主流になる、との確信が芽生えていた。

一行がブラバムに出向いたのはルマンの記憶も冷めやらぬ6月26日。ちなみにその前日はロータスを、次の日にはコスワースを往訪している。一行がブラバムで偶々みかけたのがBT8。幸いプリンスの一行にはエンジン設計者の榊原雄二氏が含まれていたところから、早速BT8のエンジンルームをチェック。プリンス自製の6気筒が搭載できるか検討を行なった。これなら何とか載せられるでしょう、との榊原氏の言葉に勢いがついて、その場でBT8を購入してしまう。これは計画的というよりは、どちらかといえばルマン熱にうかされた衝動的な行動のようにも感じられる。というのも、ブラバムやロータスを往訪した本来の目的は社内の開発参考用にフォーミュラを物色することで、BT8のようなプロトタイプレーサーの購入は考えていなかったからである。ちなみにこの時プリンスはブラバムからフォーミュラも一台仕入れている。

英国の後、一行は高性能気化器の買い付けの為イタリアのボローニャに飛ぶ。目当てはウェーバーである。

ボローニャのウェーバー社に到着すると即座に、ツインチョークウェーバーを5000基調達したいと申し出る。ウェーバーはフィアット用の気化器など標準品の生産が主体で、特殊なレース用気化器はサイドビジネスのようなもの。しかも会社の規模もそれほど大きいようにはみえなかった。そこへ一気に5000基ものオーダーをすれば交渉に時間がかかるものと予想したプリンスの一行は、ボローニャでの日程に余裕をもたせていた。ところが、ウェーバー側はこの発注を意外なほどあっさりと受け入れてしまう。これには唖然としたと田中氏は述懐している。



予定より遥かに早く商談が成立したことにより思いがけない余暇ができる。ここで、普通ならイタリアの観光でもしようということになるのだろうが、プリンスの場合は違う。ボローニャからモデナは近かったはずだ、とばかり、アポイントもとらずにフェラーリを往訪、しかも、いきなりエンツォに面会を申し入れるのである。

プリンス一行のイタリア国内での行動をコーディネートした現地の商社スタッフも有能だったのだろう、約束も取り付けずに現れた日本人たちをエンツォはあたたかく迎え、懇談に応ずるのである。エンツォにとっては日本の駆け出しにすぎない貧乏会社のプリンスが、それでも精一杯レースを行なおうとしている姿にうたれたのかもしれない。そこに、かつての自らの姿を投影していた可能性もある。

文・写真提供:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA)

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