プリンス自動車のインサイドストーリー 第2回│プリンスとル・マン

文・写真提供:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA)



フェラーリでの思わぬ成果はエンツォとの懇談だけではなかった。わたしはレース場に足を運ばない、と話すエンツォに見せられたのは、ルマンから凱旋してきたばかりの275Pや330P、そして前年に発表された250LMだった。ブラバムにおいて衝動的にBT8を買ってしまっていたプリンスの一行にとって、それらのプロトタイプレーサーはさぞ眩しく映ったことだろう。この時、エンツォはプリンスの一行に次のような言葉をかけている。

モデナの人々は日本が大好きです。その証拠に、モデナには「ノギ」や「トーゴー」といった乃木希典陸軍大将と東郷平八郎海軍大将にちなんで名づけられた道があります。

これは、極めて婉曲な言い回しではあるが、ひたむきなプリンスの一行に対して贈られた、エンツォからのエールのように感じられてならない。

ちなみに、フェラーリを往訪した田中次郎氏の許には、その後もエンツォから毎年フェラーリの年鑑とクリスマスカードが届き、それはエンツォが亡くなるまで続いたそうである。

このような故事に照らせば、R380が誕生した背景にはフェラーリの影がある。プリンスにプロトタイプレーサーの可能性を確信させたのが1964年のルマンで優勝したフェラーリ。そしてフェラーリといえば、何をおいてもスクーデリア・フェラーリ。プリンスが抱いたルマンへの夢を暗示するエヴィデンスとして1枚のソノシートが存在する。



本来昭和40年(1965年)に開催される予定だった第三回日本グランプリが、諸般の事情から急遽中止となり、プリンスではそのために開発してきたR380をデビューさせる場を失ってしまった。そこで企画されたのが、R380による速度記録への挑戦。

昭和40年(1965年)10月6日の谷田部は曇天だった。R380は52ラップまでを快調に走り、それまでの走行で六つの国内速度記録を樹立している。残念ながら52ラップ目でクルマを壊しリタイア。10月14日の再仕切りで更にひとつ記録を塗り替え、6日の分と合わせて七つの国内記録を打ち立てている。
 
この快挙に対し会社から報奨金が出たのだろう。記
録会を仕切った車両技術第一部・走行実験二課・管理整備係の係長だった養老慶一氏が企画製作責任者となって走行実験課で歌われていた曲のソノシートが作成された。ソノシートに収められているのは、下記の2曲である。

1.レッツゴープリンス

 ソノシートには作詞・走行実験課とある。個人名は謳われていないので作詞者不詳ということか。曲についての記載はないが、関係者によると、加藤隼戦闘隊、の曲だそうで、何とも勇ましい。
2.スクデリヤプリンス
 
そしてもう一曲が、スクデリヤプリンス、と名付け
られたもので、作詞は青地康夫氏。青地氏の当時の役職は、走行実験二課の課長。編曲は社内ドライバーとしても名を馳せた古平勝氏。歌詞のところに記されている走行実験三課は、昭和40年(1965年)6月1日の職制変更で走行実験二課となる部署。走行実験三課の仕事は、昭和40年(1965年)6月1日をもって走行実験二課に引き継がれている。ちなみに走行実験二課の陣容はほぼ三課に準じ、課長はどちらも青地氏である。

歌詞をよくみると、レッツゴープリンスでは、チームであるプリンス、次にドライバー、最後にメカニックの順で歌われ、スクデリヤプリンスでは、メカニックが最初、次いでドライバー、最後が部署。二曲揃うと実にバランスの取れた歌詞になっている。

また、加藤隼戦闘隊でありながら、レッツゴープリンス、というのも洒落ている。このソノシートができたのは、映画のレッツゴー若大将が上映される2年も前のこと。

更に、昭和40年(1965年)当時の曲名がスクデリヤプリンス。前年に往訪したフェラーリが陰を落としているとはいえ、ソノシートにその名を使用するセンスは、さすがはプリンスである。

実のところプリンスはひそかにルマンを目指していた。そのため、1965年4月から45日間にわたり193馬力にチューンされたS54CR1台と三名のスタッフを欧州に派遣している。クロスフロー化され193馬力のパワーを得たS54をカルネナンバーで欧州を走らせ、なかでも入念にルマンのコースで計時とデータ取りを行なっている。

帰国後、そのデータはR380でルマンに挑戦する際の検討に用いられ、机上計算で最適のギア比などが求められている。後々もプリンスが得意としたコース走行シミュレーションである。



そうした検討のさなか、突然おこったのが日産との合併。これによりルマン参戦は叶わぬ夢となった。プリンスのひとたちは、それでもあきらめなかった。1969年11月には、R380の耐久性を実証するべく、オーストラリアで開催されたシェブロン6時間レースに参戦。見事1-2フィニッシュを飾っている。それでも、日産はルマン参戦にはGOを出さなかったのである。

ここに示した一枚の写真。これはルマン用のR380。ランプ類などの細かな部品がルマンのレギュレーションに合わせて改造されている。歴史に「もし」はありえないが、プリンスが日産と合併していなければ、日本勢で最初にルマンを制していたのはプリンスだったのかもしれない。

文・写真提供:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA)

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