ランボルギーニの黄金時代を作り上げた人物│パオロ・スタンツァーニ

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パオロ・スタンツァーニは、1936年にイタリア・ボローニャで生まれた。1961年に大学を卒業し、1963年にフェルッチオ・ランボルギーニが設立したランボルギーニ・アウトモビリに加わった。

「私は単なるバックアップ要員でした。ダラーラに万一のことがあった時のためのね」とスタンツァーニは笑いながら語った。

当時、名車ランボルギーニ・ミウラの父のひとりであったジャンパオロ・ダラーラは、マセラティから引き抜かれて、ランボルギーニのチーフエンジニアの職にあった。彼よりすこし遅れてランボルギーニに参画したスタンツァーニは、ダラーラとの共同作業でミウラを造り上げた。シャシーやエンジン関連をダラーラが、スタイリングを含むボディ廻りをスタンツァーニが担当するという役割分担であったという。そこでスタンツァーニは生涯の友であったマルチェッロ・ガンディーニとの知己も得たのだった。



1967年にスタンツァーニはチーフエンジニア職に就くと同時に、会社全体を統括するゼネラル・マネージャーにも任命された。そして、ランボルギーニを代表するモデルであるカウンタックを誕生させ、彼が最も力を入れて生み出したのが、先進の技術を満載したウラッコで、ランボルギーニの黄金時代を作り上げた。

だが、ランボルギーニの体制が大きく変わったのを転機に1974年に辞すと、公共事業に関連するダム開発事業に携わった。その後、1979年にテクノスタイルという技術コンサルタント会社を興した。1991年にはロマーノ・アルティオリが率いるブガッティ・プロジェクトに加わりEB110を生み出すという大仕事にも携わった。

パオロ・スタンツァーニは、数多くの素晴らしい業績を残したにも関わらず、世の中から過少評価されているといえよう。それは、彼の控え目でシャイな性格ゆえだろうと考えられる。しかし、スタンツァーニはまさに当時の自動車業界に関する生き字引であった。何を訊ねても、彼は的確な答えを出してくれた。
 
彼はミウラになるはずであったカロッツェリア・
トゥーリングによる最初のスタイリング提案や、ダラーラとカルロ・フェリチ・ビアンキ・アンデルローニと共に写った、最初期のP400シャシーの写真も包み隠すことなく見せてくれた。

スタンツァーニが、大笑いしながら語った、ランボルギーニ勤務第一日目のエピソードは忘れることはないだろう。

「まさにハリウッドのコメディ映画そのものだっ
たさ。フェルッチオと私は、彼ご自慢のフェラーリでミラノのピレリ本社を目指した。私はといえば、フィアット500 より速い車など乗ったこともなかったから、彼の芸術的な運転に気を失わんばかりだった。ピレリ社に着くと、彼は田舎訛り丸出しの大声で担当者をやり込め、購入するタイヤの大幅なディスカウント契約を結んでしまったんだ。帰りにガソリンスタンドで給油するときにもガソリン代を値切らんばかりだったし、そこではミネラル・ウォーターをたった一本しか買わなかった。一本で充分だろ、ってね。彼は見栄を張ることなく、余計なところには一切、金を使わなかった」 

ミウラ45周年記念イベントの時、スタンツァ
ーニとフェルッチオの息子、トニーノを交えてのディナーも思い出深い。面白かったのは、この二人の記憶がことごとく異なることであった。しかし、カウンタックという名前がどのようにして生まれたのか。この真実は議論の余地がないだろう。

なぜなら、その現場にいたのはスタンツァーニとガンディーニを含む、ほんの数人だったからだ。
「ジュネーヴ・ショーへ出展するプロトタイプの作業は大幅に遅れていた。ランボルギーニとベルトーネ両社で想定外のストライキが勃発したからだ。まだ、たくさんの作業が残っているから、一日でも作業が止まったら間に合わない。事前にスクープされたりしたら元も子もないから外部に任せるのも危険だ。

ベルトーネのスタッフが、彼らの本社近くの納屋で作業をするという妙案を思いついた。そこで夜を徹した作業が始まったのだが、ある夜、突然納屋の扉が開いた。私たちは動揺したが、そこにいたのは近くに住む農夫だった。誰もいないはずの納屋から深夜、音がするからびっくりして覗いてみた、ということだった。

その農夫が目の前にある"物体" を見つめて放った一言が"カウンタック" だったのだ。ボローニャ育ちの私に、その方言は意味不明だった。ベルトーネの人間に聞いて初めてその意味が分かったんだ。あとの話は皆が知っての通りさ」

編集翻訳:越湖信一 Transcreation:Shin-ichi EKKO Words:Massimo Delbò

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