キャデラックとブルーズミュージックを辿る旅│ルート61を行く

Photography: Martyn Goddard



メンフィスを過ぎると、ハイウェイ61は長くて退屈で、これといった特徴のない高速道路となるが、それでもキャデラックは力強く走り続けた。途中、メンフィスで一度パンクしたが、これは取るに足らない金額で友人に修理してもらった。これを除けば、1000マイルを越える旅の道中、トラブルらしいトラブルに遭ったことは一度もなかった。

それよりも意外だったのは、古くさいけれど思いのほか正確なオンボードコンピューターの燃費表示が20mpg(約8.4㎞/リッター)あたりを示していることだった。

ところで、往時の人々が抱いた「あそこに行きたい」という思いは、いまでは信じられないくらい強いものだったようだ。"グレート・ミグレーション" に加わった黒人たちは、まるで磁石のようにシカゴという街に引き寄せられ、そこでブルーズの何たるかを思い知らされることになる。



もしも飛びきり面白い話、不思議な話と出会いたいなら、ウィリー・ディクソンのブルーズ・ヘブンを訪ねるといい。ここはもともとチェス・レコードがあった場所だが、ディクソンを始めとする南部からの移民たちは、ここでシカゴ・ブルーズ(基本はデルタ・サウンドだが、アンプを用いることで音量が大きくなり、より明るく力強い音楽となった)を生み出し、後にジョン・メイオール、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジといったアーティストに大きな影響を与えていった。このミュージアムはいまもディクソン一家によって運営されており、ウィリーの孫にあたるキースが様々な話を聞かせてくれるだろう。

もしも何かを感じたいのなら、"バディ・ガイ"に行くといい。シカゴを目指したバディがルイジアナを飛び出したのは1957年、彼がまだ21歳のとき。その1年後にレコード会社と契約を結ぶとスーパースターへの道を歩み始め、いまではシカゴ・ブルーズ・サウンドの第一人者として知られている。「いまも生きているギタリストのなかでは彼がベスト」 クラプトンはそう断言する。客あしらいがよく、世界的にも有名なバディ・ガイズ・レジェンズは、たとえバディ自身が店にいなかろうと、もしくは他の店であれば人気が少ない火曜日であろうと、立錐の余地がないほどたくさんの客で賑わっている。

ブルーズ・ビジネス界でバディより多くの賞を得た者はいないだろう。それは店に飾られたトロフィー・ケースを見れば一目瞭然だ。けれども、それらを眺めながら、私はデルタ地域出身のベジー・スミスやロバート・ジョンソンが歩んだであろう、長く厳しい道のりに思いを馳せずにはいられなかった。



翌朝、ロンドン行きの飛行機に乗るマーティンを空港まで送り届けると、私はキャディのステアリングを大きく切り、ハイウェイを今度は南に向かった。ひとりでテネシーまで向かうのはずいぶんと長いドライブだが、トランクには山ほどオイルを積んでいるし、ラジカセもあれば、自分で編集したオールマン・ブラザースのCDもある。私は、速度違反で捕まる一歩手前の70mph近くまでスピードを上げると、ワン・ウェイ・アウトの曲をかけ、ボリュームを上げた。

そうだ、次はバイクでこれと同じ旅に出よう。た
しか、友人のウェズレーはハーレーダビッドソンのスポーツスターを何台か持っていたはず。あれだったら、この旅にぴったりマッチするに違いない。

編集翻訳:大谷 達也 Transcreation: Tatsuya OTANI Words: Dale Drinnon 

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