私が操ったポルシェ911のなかではベスト|ワークスドライバーがそう語った完璧なレストア

1970ポルシェ911ST(Photography Remi Dargegen)



結局、メカニックたちはさらに10kgの軽量化に成功し、二日酔いで頭痛に悩まされるほどのシャンパンを手に入れた。もっとも、最後の計量で燃料を10リッター分抜いておくことさえ忘れなければ、彼らはさらに多くのシャンパンを飲むことができるはずだった。そんな思い出をラルースは笑いながら語ってくれたが、それでも911の車重には満足しなかったという。「私はレーシングドライバーだから、もちろん納得しませんでした。もっと軽くするよう彼らに要求しましたよ。そして、メカニックたちはそれを成し遂げてくれました。とても速い車でした。当時、私が運転したどの911よりも速く、しかも驚くほどドライバビリティが優れていました」

しかし、1970年のイベントには陰謀が渦巻いていた。そもそも、マトラのレーシングスポーツがレース仕様のGTモデルやツーリングカーと戦うことを認められたこと自体、ほかのチームには驚きだった。MS650は法的に公道走行が認められているとされたが、実際にはレーシングプロトタイプそのもので、ナンバープレートさえ備えていなかったのだ。

しかも、リードドライバーであるジャン-ピエール・ベルトワーズとアンリ・ペスカローロのふたりは、イベントがバンドルで幕を開けたとき、F1カナダGPに参戦していた関係でまだフランスにさえ入国していなかった。このため規則は「各自がそれぞれの場所でスタートを切ることができる」と大急ぎで書き換えられたのだ。ベルトワーズと"ペスカ"がライバルたちに合流したのは、イベント3日目のポー・サーキットでのことである。

ポルシェが挑んだクラスでは、ラルース/ジェランの911に対抗できるチームは皆無だった。いっぽうで、規則をねじ曲げて参戦したマトラは、自らその違法性を次々と暴いていくこととなる。まず、イベント前にロードセクションの舗装がやり直されたうえ、それでも立ち往生しそうになった場合に備え、ノーズ部分をゴムで補強したシトロエンDSを用意。人目のないときにこっそりとマシンを押す準備を整えていたという。

こうしてマトラ・チームはベルトワーズが優勝、ペスカローロも2位でフィニッシュした。もちろん、ラルースは彼らを懸命に追ったが、最終日の朝にはクラッチ・トラブルに見舞われ、リタイアの危機に直面する。

「皆さんはイベントの思い出を語って欲しいと望んでいますが、あまりたくさんは覚えていません。なにしろ、すべてが順調にいって、問題は小さなものがひとつ起きただけだったのですから。これが、もしも散々なレースだったら、きっとよく覚えていたでしょう。車の信頼性が高かったとか、ドライブして楽しかったとか、そういうことは往々にして覚えていないものなのです。それでも、911STはバランスが良好で、傑出したパワー・ウェイト・レシオの持ち主でした。ご存じのとおり、その後、私はマトラに所属(1973年と1974年のル・マン24時間で連勝)しましたから、彼らのことは心からリスペクトしていますよ。だから、この年のトゥール・ド・フランスに事実上のレーシングカーで出場したことについて、詳しくお話しする気にはなりません。ポルシェだって同じことをやろうと思えばできましたが、誰もマトラが完走するとは予想していなかったのです。彼らがトゥール・ド・フランスのスピリットを重んじなかったのは事実ですが、それは私にはどうでもいいことなんです」

編集翻訳:大谷達也 Transcreation:Tatsuya OTANI Words Richard Heseltine Photography Remi Dargegen

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