ピニン・ファリーナがただ1台だけ手掛けた「希少種」|ジャガーXK120

1954ジャガーXK120SE ピニン・ファリーナ(Photography: Matthew Howell)

ピニン・ファリーナがただ1台だけ手掛けたジャガーXK120がある。このたいへんめずらしいジャガーにロバート・コウチャーが試乗した。

私たちの目に前にある1954年型XK120SEは、ピニン・ファリーナがボディを架装した1台限りのジャガーで、OTS(オープン2シーター)をベースとして造られた。

1948年10月のロンドン・ショーでジャガーは、今や伝説の存在となったXK120を発表した。そのボンネットの中に収められていたのは、新開発のツインカム6気筒で、新エンジンの実験的な意味合いを含んだモデルであった。そのモデルはOTS、米国でいうロードスターであった。

優美な曲線で構成されたボディは、自らデザインしたジャガー社の総司ウィリアム・ライオンズに量産を決断させるほど、大きな好評を博し、翌49年から販売を開始した。1951年にフィクストヘッドクーペ(FHC)、さらに53年にはドロップヘッドクーペ(DHC)がラインナップに加わり、結果としてXK120シリーズはジャガーの"デザイン中ベスト"と評されるものとなって完成した。時速120マイルの俊足をもつXK120は、その時点で購入が可能な最速のプロダクションモデルであった。

例外的な社外ボディ
それではなぜ、ジャガーは完成度が高いデザインを持つXK120にPF(ピニン・ファリーナ)が架装することを認めたのだろうか。理由は北米市場にあった。1950年代当時の英国は終戦後の疲弊した経済状態にあり、「輸出か死か」といわれるほど、輸出は最優先の命題となり、ほとんどの自動車メーカーは最大であった北米市場への輸出に努めた。ジャガー社も例外ではなく、それゆえXKのほとんどは北米に渡った。XK120シリーズ全体のLHDは実に85%に達した。つまりジャガー社は、アメリカの顧客からの求めには「No」と言えなかったのである。

ニューヨークを拠点とする高級欧州車のインポーター、オーストリア生まれのマックス・ホフマンは、常にマーケットのトップエンドを顧客とし、強い影響力があった。ホフマンの実力を評価していたメーカー各社は、彼が顧客のために車をカスタマイズすることを認めていた。マンハッタンのパークアヴェニュー430番地に居を構えるジャガー・ホフマン・オートショールームは、かのフランク・ロイド・ライトの設計で、これによりジャガー本社の支持を得たであろうと思われる。

編集翻訳:小石原耕作 Transcreation: Kosaku KOISHIHARA (Ursus Page Makers) Words: Robert Coucher Photography: Matthew Howell

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