「速度を犠牲にしているという感覚なしにドリフトに持ち込むのは簡単だった」

Photography: Simon Clay 

今も完璧にオリジナルコンディションを保っているアラン・マン・ロータスコルティナで、ジョン・ウイットモア卿は1965年の初シーズンに8回の優勝をものにした。ジョンとマシンの再会ストーリーをトニー・ドロンがレポートする。

ジョン・ウイットモアと会うのは、いつだって楽しみだ。本物の博識の持ち主が、俄かには信じられないような発想で講義してくれる、とても楽しくてためになる授業。しかも彼は、ちゃんと自分の立場がわかっていて、どんなに話がひろがっても、話題はいつしかちゃんと車に戻されていく。

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このことは、かのジム・クラークがかつて、ボス(コリン・チャプマン)に耳打ちして怒らせたことがあるのだが、私はあらためて聞いてみた。アラン・マン・レーシングのロータスコルティナは、なぜチームロータスのマシンより優れていたのか?だ。ジョンは、「アランはワシが車をどう思うかを尋ねただけで、あまり多くは話さなかったけれど、彼は最高だったさ。いつもなにか細かい改良を思いついては、車に反映させていたね」とだけ言った。私もチームロータスのクルマには乗ったことがあるが、アラン・マン・レーシングの車の方が、実際いつも少しだけ優れていた。

というような会話から、話題はいきなり180度変わってしまう。ジョンは、アポロ12号の乗組員であり、月面に降り立った3番目の人類であるチャールズ・"ピート"・コンラッド大尉とともに擬似月面着陸をやったことがある。



「ジャッキー・スチュワートが、コンラッド大尉はモーターレーシングにとても興味があるからと言って、紹介してくれたんだ。シミュレーションはヒューストンのNASAジョンソン宇宙センターのカプセルを使った。75分間くらいだったな。なんの問題もなかったさ。だってワシは、計器飛行証明をもつ職業パイロットだったんだからな」

「でも、かわいそうに、ピートは事故で死んだんだ。月面着陸30周年を祝う直前、70歳になろうって時に、カリフォルニアでハーレーダビッドソンでクラッシュしてね」

彼のベストフレンドの一人は、間違いなくスティーブ・マックイーンだ。50年以上前、ジョンはすでに俳優だった彼に、モーターレーシングを始めさせた。ここ英国で。 次の話題はイーストアングリアで農場をしている旧友のジャック・シアーズの様子についてだ。「彼の3番目の農場は現在は水浸しでなにも植えられないんだ」等など、話題は彼自身の事を除いてはほとんどなんでもありだが、取り留めのない会話も、必要に応じて車へと戻されていく。 

ジョンは、実際のところは、サー・ジョン・ウ
イットモア、もちろん准男爵様だ。彼の高貴な血統は西暦1290年まで遡ることが出来る。そしてそれを誇りに思ってもいるが、ハナにかける気は毛頭無く、むしろただの“ジョン”でいたいとさえ思っている。700エーカーの敷地の屋敷に生まれ、イートン校、サンドハースト王立陸軍士官学校、王立農業大学と型通り順調に進学する中にも、彼は常に自分の心の奥底にある探究心、冒険と独立を意識していた。彼は一時、変わり者、常軌を逸した空想家と言われていたことがある。通常であれば引退して当然の高齢にある今でもその気持ちは揺るがず、いまだ堅固にしっかりと、夢を追い続けている。



1937年生まれのジョンは1958年にレースを始め、すぐに頭角をあらわした。数カ月後、彼はコリン・チャプマンから電話をうけた。ワークス仕様のボーダー・リーヴァーズのロータスエリートで、ジム・クラークと一緒に1959年のル・マン24時間をやらないか、という誘いだった。結局彼等は総合で10位、クラスで準優勝。

サー・ジョン・ウイットモア、レーシングドライバーとしての本気の一歩を踏み出した年だ。1961年にはミニ850でブリティッシュ・サルーンカー・チャンピオンシップに優勝。これにより、フォードとのワークスドライバー契約が成立する。そして、後年、それらすべてで仕事をすることになるチームロータスやジョンウイルメント、そしてアラン・マン・レーシングの各チームと出会うことになる。アラン・マンは、ある夜、ジョンが彼のロンドンのフラットに尋ね
て来た際、わざわざ表の電話ボックスから電話してきたことで、彼の礼儀正しさに感銘した。そしてその夜、まだ未発表だったマシン、ロータスコルティナと、エースドライバーのポジションでのヨーロッパ・ツーリングカー・チャンピオンシップ参戦を提示した。セカンドシーズンにあたる1965年、チームはジョンの駆るこのKPU392Cで選手権の優位に立った。

1989年のある日、私はフォード社のボアハムサーキットを、ジョンと、当時は彼が所有していたKPU392Cの限定テストのために押さえたことがある。我々はふたりとも、レーシングスピードで存分に走り回り、私は車それ自体と、そ
れにまつわる歴史の断片を確認できたことに満足だった。

編集翻訳:小石原 耕作 Transcreation: Kosaku KOISHIHARA Words: Tony Dron 

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