「速度を犠牲にしているという感覚なしにドリフトに持ち込むのは簡単だった」

Photography: Simon Clay 



ジョンがそれを入手したのは1967年、フォード販売店でのプロモーションツアーが終了した後であり、そしてその後の28年間、KPU392Cは彼の所有下にあった。1965年のシーズン終了後、凱旋プロモーションツアーのためにKPU392Cはフルレストアを受けたが、同時に売却も考慮してシートはノーマルが与えられた。

ジョンがそれを買ったときにも、その状態は何
一つ変わっていなかった。1972年から5年間、KPU392Cはビューリーのナショナルモーターミュージアムに貸し出され、同館では、時に応じて展示を行った。1978年、ジョンはそれを引き上げ、その当時フェアオークス簡易飛行場で彼の航空ビジネスを担当していたアラン・マンのところへ再び持ち込んだ。アラン・マン・レーシングは既に活動をやめていたけれども、何台かのヴィンテージマシン達はフェアオークスのアランの元で依然可動状態にあったから、ジョンの車は早速整備に回された。

その後マシン
はジョンのかつてのチームメイト、ジャック・シアーズが保管してくれることになり、イーストアングリアに移されて、それから暫くフェラーリ250GTOを含むジャックのプライベートコレクションに預けっぱなしにされていた。車はこの間一度、サーキットのデモンステレーションランに参加したが、その際不幸なことにヘッドガスケットを吹き抜いてしまった。ジョンがKPU392Cに行った変更といえば、後部に最小限のロールケージを入れたことだけだった。そしてそれはボアハムでの久しぶりの限定のテストの際もそのまま残っていた。

ジョンは「フォードみたいな優良企業は、クラシックカーの価値をつり上げてくれるのさ」と冗談を言ったが、それはあながち嘘ではない。何故なら1995年のオークションにKPU392Cが出品されたとき、同車の落札価格の高値記録が塗り替えられたからだ。買い手はニューイングランドからやって来た、控えめでとても趣味の良いアメリカ人のエンスージアストだった。そのときのオークションで競り合ったライバルはKPU392Cをヒストリックレースに出そうとしていた連中で、もし彼らが落札していたら、この貴重な歴史の断片は永久に失われていただろう。しかし、幸いなことに、彼らにハンマーは落ちなかった。



KPU392Cはアメリカで新しい安住の地を得、新オーナーは車が家に到着したとき、初期の写真には写っていた小さなPyrene製のブラス製消火器が紛失しているのに気付き、それを地元のオートジャンブルで探し出し、トランスミッショントンネルに残されていたブラケットに戻したほどだ。KPU392Cは引き続きオリジナルの状態に維持され、地元のロータスクラブイベントに時たま参加するなどごく丁寧に、控えめに使われ、1995年に購入されて以来1000マイルも走らなかったということだ。

編集翻訳:小石原 耕作 Transcreation: Kosaku KOISHIHARA Words: Tony Dron 

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