「速度を犠牲にしているという感覚なしにドリフトに持ち込むのは簡単だった」

Photography: Simon Clay 



それから更に十数年の時を経て、KPU392Cは再びオークションに出品の為故郷英国に戻された。KPU392Cほど真にオリジナルを保った60年代のレーシングサルーンが他に存在するとは思えないが、更にオーナーは売却に際しブレーキシステムを完全にリビルトし、新品のダンロップレーシングを履かせた。この賢いアメリカ人はまた、スペアのホイール1セット、グラスファイバー製レーシングシート1対、二つの額入りポスター、そしてサー・ジョン・ウイットモアが以前のオーナーであることが明記された英国のオリジナルV5登録証も保管していた。これらは、他の多くの貴重な品と共にオークション車輌に付属したが、1965年のヨーロッパ・ツーリングカー・チャンピオンシップ優勝車としての輝かしい来歴を持ち、今なお当時のレッドとゴールドのアラン・マンの"制服" を身に着けた同車の落札価格は予測し難かった。

ボナムスの落札予想価格は9万から12万ポン
ドだったが、これはかなり遠慮した数字だったといえる。(訳注:実際、ロット315のKPU392Cは18万3500ポンドの高値で落札された。)
 
グッドウッドのフェスティバル・オブ・
スピードの会場で開催されたボナムスのオークションに同車が出品された際、ジョンは招かれてかつての愛馬でヒルクライムを披露したが、それはさして難しいことではなかっただろう。そう言えるのは、私が、この特別な車を実は何年も前から知っていたからだ。その日ジョンは、あきらかに愛馬との再会を楽しんでいたが、再び所有したいとは思っていないようであった。

最初のヒルクライムが終了するや、私はパッセンジャーシートに飛び込んで車の感想を尋ねた。「思ってたより、ずっといいぞ」ジョンは言った。「ハンドリングが驚くほどいいし、かなりクイックな反応だ。だがブレーキは問題だな。ストロークがありすぎて、いきなり効きだすまで、まるで手ごたえがないんだ」



これはサーボの固着を示しているが、ひょっとすると、リビルトしたばかりのブレーキに慣らしが必要だったのかもしれない。リアは常に下がっていたが、私が以前見たときよりさらに下がっている。下がってはいるが、ジョンによれば、ハンドリングにはあまり影響はなかったそうだ。1965年モデルはリアはリーフスプリングだが、その時代としてはかなり特殊なレーシングパーツが使われている。この、とても珍しい形状の半楕円リーフスプリングの製作には名人芸が要求されたに違いない。

私自身によるKPU392Cのドライビングセッションは、前述の1989年のボアハムサーキットにおいてだった。アラン・マン・レーシングのロータスコルティナはチームロータスの車輌ほどコーナリング時にフロントホイールがリフトアップしないセッティングだったが、コーナーをハードに攻める際、内側の前後ホイールのグリップをほとんどあてにせずまわることができ、しかも極めてコントローラブルで、速度を犠牲にすることなく至極簡単にドリフトに移行できた。

オールドファッションのタイヤは、その後暫
くしてからサルーンカーレースの現場で話題になった通り、その低剛性ゆえの強力なグリップがパワーを奪う方向に作用しスキッドを引き起こさなかった。このソフトなサスペンションによるたっぷりとしたボディロールと、周回を重ねるにしたがってますます深まる、おいそれとは転倒しないぞという確信と信頼。この車は実際のところ既にほぼ四半世紀前の製品なのに、新品のタイヤやダンパーでのフルリビルトで、かなり年齢を偽っているようにも思えた。



KPU392Cは依然として、コーナーをクイック
に攻めることが可能な、正真正銘のレーシングカーなのだ。私はかつてこれで、最小限のステアリングインプットでテールを振り出すことに集中したものだ。それには、思わず逆ハンを切るという本能に打ち勝つことが必要で、それさえ出来れば、あとは忠実なニュートラルステアからオーバーステアドリフトへとマシンを導くことが出来る。ブレーキの感触はすばらしく、驚くべき効率でこの軽い車のスピードを殺す。

話を現代にもどそう。私はあの時、KPU392Cの驚くべきオリジナリティを高く評価していたので、車のダメージに繋がるような愚行は心して行わなかった。未だにアクシデントフリー(無事故)だ。

個人的にはこの状態のまま永遠に保存させたいと祈っているが、もしも誰かがこれを買ってヒストリックイベントのレースにでも出ようものなら、その得がたいオリジナリティを永久に失うであろうことはレースがスタートする前から明白だ。さらには現代のタイヤ性能と、フルロールケージ装備の車としては当然の結果である向上したボディ剛性に合わせるため、サスペンションはもっと硬くなければいけないし、それでコイツは即、全く違うマシンになりうるだろうが、実はこの、かなり特別なコレクターズアイテムの真の価値は、信じられないほどのオリジナリティにあることを忘れてはいけない。 

ヨーロッパ・ツーリングカー・チャンピオン
シップ1965年シーズンについては多くの記述が残るが、しかしそこにはいまだに人々を混乱させる一つの小さな事実があった。

1964年、レーシング・ロータスコルティナのリアサスは、オリジナルのAアームとコイルスプリングだった。アラン・マンは、堅固なリーフスプリングでのシンプルなリアサスにすることを強く申し入れ、このリクエストは1965年シーズンより受け入れられた。新型車はヨーロッパチャンピオンシップのオープニングには間に合わなかったので、3月19日のモンツァではジョンとヘンリーテイラーのドライブで古い1964年型の2台が駆り出された。長いストレートを先頭で疾走したが、エンジンにはちょっと負担だったらしく、その直後、リタイアとなる。

リーフスプリング付の新型車は、同年の6月6日の第2戦、モン・ボントウのヒルクライムにちょうど間に合ったが、アラン・マン・カラーの塗装までは時間的余裕がなく、スタンダード色であるグリーンのストライプ入りの白のままだった。ここでのジョン・ウイットモアの勝利は完壁だったが、奇妙なことにマシンには1964年型のBTW297Bのナンバープレートが付いていた。登録する時間が無かったのは明白だ。

第3戦はモン・ボントウの翌週、ニュルブルクリンクでの長距離レース。ニューマシンはスタンダードカラーで奇妙なナンバープレートを付けたまま。ジョンはノルドシェライフェ(北コース)の34ラップをジャック・シアーズとふたりで担当し、またも優勝を果たした。

6月下旬、ゾルダーでの第4戦、ジョンがまたしても完全な勝利をモノにした際、アラン・マン・レーシングの1965年ロータスコルティナは赤と金の正式な制服を身に着けていた。ナンバープレートについては、言うまでもなかろう。残り5ラウンドを通して、ジョンは彼のクラスで毎回勝利した。つまりあのKPU392Cは、1965年の全9戦のうち8戦を制覇したということになる。

これには更に、オリンピアでのヒルクライム、スネッタートン500kmレース、そしてサント・ウルソンヌ・レ・ランジェ(St Ursanne-Les Rangiers)のヒルクライムでの3つの優勝がボーナスとして加わる。

彼はここで周りを見回し、グッドウッドハウスの外に綺羅星のような"プライスレス" な車たちを見ながらこう言った。

「こいつ等も全部、終わっちまうだろうさ。判るかい?」腕をのばして、その車たちを指し示す。「こういうのは、エンスージアストだけのマイナーな行事になっちまうだろうな。わしらが言う“ モータリング”って奴は、もう終わりに近づいてるのさ」いつもそうだったように、彼は正しいのだろう、恐らくは。私は考えてみた。でもやっぱりそれはまだ全然終わっていない、と思えた。しかし、どうしてそうだと断言できる?

編集翻訳:小石原 耕作 Transcreation: Kosaku KOISHIHARA Words: Tony Dron 

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