アルピーヌM64 ル・マンへ帰る道

Photography:Chris Szczypala/@igiveashoot(action)

ル・マンでの勝利から半世紀あまりの時を経て、ルネ・ボネを打ち負かすためにアルピーヌとロータスが作り出したプロトタイプ・マシンがサーキットに再び戻って来た。

コーリン・チャプマンは雪辱を果たしたかった。彼のロータス23は、些細な規則の解釈の違いで(チャプマンによれば、だが)1962年のル・マン24時間レースから締め出されてしまった。二度とル・マンには出場しないと決めたチャプマンの怒りはルネ・ボネに向けられた。というのも、新型のミドエンジン・ロータスが熱効率指数賞を獲得できなかったのは、フランスのコンストラクターが抗議したせいだと確信していたからだ。性能指数賞とも呼ばれたそれはボネが狙っていたものでもあった。

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敵の敵は味方
チャプマンの怒りを他に向けさせたのは、彼と親しい著名ジャーナリストのジェラルド・"ジャビー"・クロンバックだった。アルピーヌの生みの親であるジャン・レデレを援助するというアイディアを授けたのである。クロンバックは、レデレがル・マンの小排気量クラスを、さらに最終的には総合優勝を狙う軽量プロトタイプの開発計画を知っていたのだ。チャプマンはレデレに自分と同種の精神を見つけた。ボネを倒すという同じ目標だけでなく、信念も同じ。つまりチャプマン同様、レデレも軽量コンパクトこそ最高のパフォーマンスに通じる道だと信じていたのである。ふたりは何度か彼らのル・マン・プロトタイプについて話し合い、ボブ・ダンスやキース・ダックワース、レン・テリーといったロータスの精鋭がアルピーヌに協力した。テリーはロータス23の経験を活かしたシャシーを設計したが、「M63」と名付けられた彼のデザインは、最新のル・マンのレギュレーションには適合しないことが判明し、レデレのエンジニアたちがアルピーヌにとって馴染みのあるバックボーン・フレームを加えて、必要な改良を行った。その一方でレデレはルノーと交渉し、アメデ・ゴルディーニを通じてルノーエンジンを供給してもらう手はずとなった。流れるようなグラスファイバー製ボディを描いたのはマルセル・ユベールである。

完成したマシンは幸先の良いスタートを切った。1963年5月に開催されたニュルブルクリンク1000kmでジョゼ・ロジンスキーとロイド・"ラッキー"・カスナーが、クラス優勝を挙げたのだ。しかし栄光の後には悲劇が待っていた。6月のル・マンには3台のM63と6人のドライバーがエントリーしたものの、レースを完走したアルピーヌは1台もなく、ドライバーも5人しか戻って来なかった。クリスチャン・ハインズが、ひっくり返ったロイ・サルバドーリのジャガーEタイプとクラッシュしたジャン‐ピエール・マンゾンのボネ・エアロジェットLM6を避けようとして事故を起こし、亡くなってしまったのである。そのレースではジャン‐ピエール・ベルトワーズとクロード・ボブロウスキーのもう一台のエアロジェットが性能指数賞を獲得した。

そんな悲劇にもレデレは挫けず、すぐにディエップのアルピーヌでは次の計画がスタート、新型は超高速でのスタビリティとハンドリングを向上させることが目標とされた。M63のホイールベース(90.5インチ)とトレッド(50インチ)はそのままに、テリーの元々の設計だったスペースフレームを採用、それはモリブデン鋼管を溶接して組み上げられた。新型車はニュルブルクリンクで高い性能を発揮したが、マルセル・ユベールはさらに自分のデザインを磨き上げるべくボディを短縮し、空気抵抗を減らすために前面投影面積を小さくした。ゴルディーニの1149cc4気筒をミドシップして完成したM64はわずか648kgしかなかった。そして期待通りに、1964年のル・マンではロジェ・ド・ラジェネストとヘンリー・モローが292周、2436マイルを平均速度101mphで走破して総合17位でフィニッシュ、さらに21mpg(約7.4km/L)を記録して性能指数賞も獲得したのである。

ボネ勢の最上位は23位で型落ちのM63よりも三つ下のポジションだった。任務は完璧に果たされたのである。

オークションに現れた国宝
ド・ラジェネストとモローが乗ったシャシーナンバー1711のM64の仕事はこれで終わったわけではなかった。ル・マンの数週間後のランス12時間にも同じクルーで出場し、クラス優勝を手に入れた。フィニッシュ後、喉がカラカラに渇いていたド・ラジェネストはシャンパンをがぶ飲みしたが、その直後にビクトリーラップをするようにと拡声器で呼びかけられたという。からっぼの胃の中でシャンパンが泡立っているド・ラジェネストは、ルノーのゲストとして招かれていたフアン・マヌエル・ファンジオに代役を依頼し、観客は大喜びしたという。

その後、このM64はミシュランの最初のラジアル・レーシングタイヤの開発に使われたり、当時としては先進的なアランカントのガス油圧サスペンションの開発テストカーとして働いたが、1965年秋、シャシーナンバー1711はアルピーヌ工場に戻り、M65やA210と同じ目を引くテールフィンを取り付けられて、ガレージにしまい込まれることになった。

再び世間の注目を集めたのは、1977年にブガッティの収集家だったジャック・オハナが購入した時だった。オハナはずっとこの車をレストアしたいと考えていたが、彼が亡くなるまでにほとんど作業は進まなかったという。彼の家族は2014年にオークションに出品し、その年のル・マン・クラシックにも展示されたが、2016年に再びオークションに姿を現した。私が関わるようになったのはその時である。

私は1970年代はじめからアルピーヌに興味を持っていたが、私と妻のキムがクラシックカーを買おうと決めた時、彼女がどうしてもと主張したのがA110だった。それこそ世界中のA110を探した私たちは、2006年にファクトリーで仕上げられたグループ4ラリーカーに行き着いた。アルピーヌを手に入れるや私たちはたちまち虜になった。それもかなり深刻に。なにしろ2008年のレトロモビルでワイパーやその他のパーツを手に入れるためだけに、ニュージャージーからパリに飛んだほどである。その際にシャンゼリゼのカフェ"アトリエ・ルノー"を訪れ、たまたま展示してあったレデレの作品に出合った。様々なル・マン・プロトタイプに目を見張ったが、それらは皆フランスの国宝のようなもので、誰かに、とりわけ米国人などに販売する車ではないと考えていたのである。

ところが2016年のある夜、PCの前に座っていた私は画面に表示された情報が信じられなかった。No.1711がパリのオークションに出品される。しかも2週間後だ。大急ぎで旅行の準備をしたのは言うまでもない。

明るい地下ガレージにM64は展示されていた。オークションのために塗装し直されてはいたが、コンディションは素晴らしく、車のほとんどは明らかにオリジナルだった。残念ながらプレキシガラスのリアハッチは輸送の途中で破損していたが、代替品を作れるはずだし、他の部分も気になる点はほとんどなかった。もちろん、ある程度のレストア作業は必要だと思われたが、フォーミュラ・ジュニアや60年代初めのレーシングスポーツカーの構造、すなわちスペースフレーム、ミドエンジン、デュアル・ウェバー45DCOE、ガーリングのブレーキ、ヒューランド・ギアボックス、ドーフィンのステアリング、そしてルノーのホイールベアリングなどに馴染みがあるエンスージアストならば、充分に対応できると確信した。

この車は空力カバーが取り付けられたオリジナルのホイールを備えていたが、もし交換する必要が生まれたとしても、ロータス23のリアホイールが使えることは分かっている。ウィンドスクリーンやトリム類は、すべてA110と共通である。いささか問題があるとしたらそれはゴルディーニ・エンジンだけだ。とりわけパリから3500マイルも離れた場所に住む者にとっては厄介かもしれないと思ったが、ル・マン・プロトタイプを何台も見るうちに、M64は意外に容易に所有できるのではないかと考えた。落札は成功し、M64は私たちのものとなった。

ニューアーク港で通関を終えたM64が玄関先のドライブウェイに降ろされた日のことは忘れられない。しばらくの間、M64はそのまま停めてあった。正直言ってどこから手を付けていいか詳細に決めていなかったからでもあるし、またその姿をただただ眺めていたかったからでもある。結局私たちは、アルピーヌが参加すべきイベントはただひとつだという結論に達した。ル・マン・クラシック2018である。

ル・マンに帰る長い道のりの最初の立ち寄り先が、ニュージャージー州クリフトンのグレアム・ロング・エンジニアリングだった。そこで、問題がある、あるいはいずれ交換が必要と思われるあらゆる部分をチェックし、必要な作業を行うことにした。「どんな穴も空けてはいけない。どんな穴も塞いではいけない」とは友人のトム・マッキンタイアのアドバイスだが、それに従って私たちはダッシュボード中央の一部壊れたエアベンドもそのまま手を付けなかった。M64にはきれいに一体化されたロールバーを備えていたが、ロールケージまでは規則で求められていなかったので、そのまま使用することにした。まったく気が進まないことではあったが、シフトリンケージは交換した。赤いラバーブーツを外し、古い部品とマッチするようにシャフトをミリタリーグレーに塗装した。M64には燃料タンクが2個、フィラーもそれぞれに備わるが、私たちはオリジナルのタンクをそのまま残し、その中に特製のATLラバーバッグを収めることにした。当時の写真を参考にして排気系も新たに作り直したが、計器類やスイッチ、ダッシュボード、そしてシートはすべて元々のパーツにほとんど手を加えずに使用することにした。

壊れたプレキシガラスハッチを修復する難題は、ペンシルバニアの田園地帯アッパー・ブラックエディに「リマーク・レストレーションズ」を構えるマーク・クラマーに委ねられた。マークは元のハッチカバーを温めて平らに伸ばし、レキサン樹脂を使って元通りに作り直した。考えなければいけないことは他にもあった。ボディを1964年当時の姿に戻すべきか、それとも1965年時点のボディをそのままにすべきか。現代のグラスファイバー技術で64年ボディを製作するのは私たちの目指すものとはちょっと違うと思われたし、それに私たちは元気よくそそり立つテールフィンが気に入っていたのだ。またショルダーハーネスを止めるためにクロスバーを追加しなければならなかったが、オリジナルの雰囲気に溶け込ませるためにバーは故意に少し汚れた感じに塗装した。その甲斐あって50年間ずっとそこに取り付けられていたかのように見えた。


編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words:Mitch McCullough Archiveimages:Renault Communication Photography:Chris Szczypala/@igiveashoot(action) and Tim Scott(static)

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