ディーノ 206を生み出したカー・デザインの巨匠にインタビュー

Photography: Piotr Jablonski

ピニンファリーナでチーフ・スタイリストを務めたカー・デザイナーのアルド・ブロヴァローネ。彼は知る人ぞ知る舞台裏のレジェンドだ。アルド・ブロヴァローネは、1926年6月にイタリアのビエッラで生まれ、1949年に職探しが困難だった戦後のイタリアを離れアルゼンチンに渡った。一度は家電製品の技術図面職を得たものの、クルマの仕事を望んでいた彼は、ブエノスアイレスにファクトリーを立ち上げたチシタリアでカー・デザイナーとしての第一歩を踏み出した。

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チシタリアの創設者ピエロ・ドゥジオは、サッカー選手やレーシング・ドライバーの経歴も持つ
富裕な実業家だった。しかしチシタリアは経営難に陥り、1953年9月、ブロヴァローネはドゥジオの紹介を経てバッティスタ・“ピニン”・ファリーナのもとで働くことになる。その後35年間にわたり、ブロヴァローネはイタリアのトリノに拠点を置く、かの名門デザイン・ハウスで業績を重ねた。



「当時、ピニンファリーナはとても小さな会社で、2、3の木製机と、製図板が数個あるのみでし
た。しかし、私はフランチェスコ・マルティネンゴやフランチェスコ・サロモーネらをアシストしながら多くを学び、デザイナーとしての自信を徐々に深めていくことができたのです」

「私の最初の役目はスケッチを提供することでした。まだ若かったし、スタイリストと呼ばれるには程遠い段階でした。それでも、私からの提案が選ばれることがあれば、フルサイズの図面を創っていました」

「最終的な決定権はバッティスタ・“ピニン”・ファリーナが握っていて、ときには私個人の主張は抑えめにする必要もありました。我々は皆で提案を持ち寄っていたのです」

「1966年にバッティスタが逝去し、息子のセルジオが後を継いでからもほぼ同様でした。セルジ
オの選択眼も洗練されていて、いつも最善のデザインを選んでいました」

ブロヴァローネの言葉は謙虚だが、彼はピニンファリーナに入社後数カ月のうちに、マセラティA6GCSクーペを図面からロードカーへと起こしている。驚くべきことに、あのデザインはブロヴァローネがまだ修行期間中の作品だったのだ。

「あのクルマは、チシタリアにいた頃の経験から様々な影響を受けていました。とは言え、私は
よりアグレッシブな外観を望んでいたので、傾斜のついた大きなグリルや、低いルーフラインをあしらいました。」


マセラティA6GCS デザイン画

ブロヴァローネは、ワンオフカーも次々に手がけた。映画監督ロベルト・ロッセリーニのフェラーリ375MM、フィアットの元名誉会長ジャンニ・アニェッリのフェラーリ375アメリカ、そして、銀幕のセックスシンボルと謳われた女優ブリジット・バルドーの特別仕様ランチア・アウレリアB24スパイダーも彼の作品だ。

「悲しいかな、私は彼女には会えませんでした。私のような職務の者たちは、別室に控えていた
んですよ!」かつて、カー・デザイナーは“単なる働きバチ”で、アーティスト個人の名前が脚光を浴びるケースは極めて稀であった。イタリアのスタイリング・ハウスも例外ではなかったようだ。

ブロヴァローネは、カー・デザインの草分けとなるアイディアも数多く生み出している。フェラーリ375MMで初めてフィーチャーされたフライング・バットレスやコンシールド・ヘッドライトは、当時のピニンファリーナのシグネチャー・テーマとなった。また、ガラス張りのドーム・ルーフなどをフィーチャーしたアルファ ロメオ 6C 3500CM スーパーフローのスタイリング・テーマは、その多くが後に同社のデュエット・スパイダーに応用された。

もちろん、彼が手がけたのは斬新なデザインばかりではない。山のような資料の中には、プジョ
ー504サルーンなどメインストリーム車の素材集も入っている。

ときには彼の先進性に対して難色を示されることもあった。ディレクター達により、「リア・エ
ンドが気に入らないからと、その部分をブツ切りに切り捨てられて」しまったこともあったという。また、ランチア・ガンマ・クーペでは、彼の最初のスケッチの大部分は再現されたものの、あまり歓迎できない変更も加えられた。

「両側面のくぼみに加えられたラバー・ストリップには
、私は感心できません。なぜあれが必要だったのか、理解に苦しみます。」と当時を思い返す。


ランチア・ガンマ・クーペ(変更前の)デザイン画 

Words: Richard Heseltine  抄訳:フルパッケージ Transcreation: Full Package

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