90年前に誕生したブルーのメルセデス・ベンツが歩んできた道

Octane UK

2017年のペブルビーチでベスト・オブ・ショーに輝いたメルセデス・ベンツ36/220。1929年にこの車を購入したのは、貴族レーシングドライバーのハウ伯爵だった。その興味深いヒストリーをひもとく。

ブルース・マカウが1枚の写真と出会わなければ、彼が2017年のペブルビーチ・コンクール・デレガンスでベスト・オブ・ショーを獲得することはなかっただろう。その写真には、最初のオーナーが所有していた頃の1929年メルセデス・ベンツ・Sタイプ36/220のリアエンドが写っていた。実は、この車は2012年のペブルビーチにも登場していたが、そのときは未レストア車クラスだった。

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その経緯をブルースが私に教えてくれた。「この車を所有して5年になるけれど、長い間、レストアをしたいとは思わなかった。しかし、はるか昔に失われたボートテールをあの写真で見た途端、新車だった頃の姿にできる限り近づけてレストアしなければならないと悟ったんだよ」
 
やるとなったら可能な限り完璧なものを目指すのがブルースだ。
「そうでなければやらなかった」と話す。



ブルースのメルセデス36/220の最初のオーナーは、レーシングドライバーだった第5代ハウ伯爵、フランスシス・リチャード・ヘンリー・ペン・カーゾンだ。ハウは、およそ自動車が誕生したときからのエンスージアストだったが、レースを始めたのは1928年、44歳のときだった。多くのレーシングドライバーが引退を考える年齢だが、その理由はごく単純なものだった。ベントレーボーイズの一員、ヘンリー・"ティム"・バーキン卿によれば、当時まだカーゾン子爵だったハウ伯爵は、スピード違反で「国中のほぼすべての警察裁判所に出頭」していたという。

その回数は1908~1924年でなんと21回にも上った。これに
うんざりしたある治安判事が、スピードへの欲求を満たしたいなら自動車レースを始めてはどうかと提案したのである。

これは実に的を射たアドバイスだった。レースを始めたハウ伯爵は1939年までにさまざまな車で成功を収めたのだ。また、エディー・ホールと共に、アーズ・サーキットで行われたRACツーリスト・トロフィーにすべて参戦した唯一のドライバーとなった。レースキャリアのハイライトは、アルファ8Cでの1931年ル・マン24時間レース優勝だ。また、ブリティッシュ・レーシングドライバーズ・クラブの会長を1929年から死去する1964年まで務めた。

1918年、ロンドンのバタシー南選挙区に保守党から立候補して当選すると、父の死で貴族院に移る1929年まで下院議員を務め、速度制限の改革に尽力した。当時の最高速度は1904年に制定されて以来、全国一律で20mph(約32㎞/h)のままだったのだ。ハウはモータリゼーション推進派として高い支持を集め、ティム・バーキンは「国家という船が車だったら、ハウ伯爵はとうの昔に首相になっていただろう」と称えている。

貴族院に移ってからも、ハウの言葉には説得力があった。交通安全に関する討論では、ヘルメットの重要性を自身の経験を元に主張。ヘルメットを被っていなければ、イギリスで1度、イタリアで2度、命を落としていただろうと語った。

1934年に『The Autocar』誌のアーネスト・アップルビーがこう書いている。「思うに、彼は醜悪な形でスピードを得る車は好まないのではないだろうか。その人物像を象徴するのが有名な青い傘だ。ほかの者がレースの日に水色の傘をさしていたら、女々しいと揶揄されるのが落ちだが、ハウの場合は、輝くグレーの瞳のおかげで、それを免れているのである」

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.)  Transcreation: Kazuhiko ITO( Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words: David Burgess-Wise 

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