90年前に誕生したブルーのメルセデス・ベンツが歩んできた道

Octane UK



レーシングカーのステアリングを握るときも、ハウ伯爵は常に染みひとつないライトブルーのヘルメットとオーバーオール姿だった。その色合いは、伯爵家の邸宅“ペン・ハウス”の庭を囲う鉄の門に今も見ることができる。おそらくレーシングカーを塗って残ったペンキを使ったのだろう。傘にしても、ハウにとっては当然のことだった。スターターが旗を振り下ろすまで濡れて待つ必要がどこにある?というわけだ。

常に染みひとつないのは、所有する車も同じだった。中でも伯爵の美意識を最も雄弁に物語るのが、メルセデス・ベンツ・Sタイプ36/220のボディだ。これを発注したのはまだカーゾン子爵だった1928年夏のことで、ボディ架装は、ロンドンはサウスオードリー通りに店を構える王室御用達のコーチビルダー、バーカーに依頼した。イギリスでの名称「36/220」は、スーパーチャージャー搭載の6.8リッターOHC直列6気筒エンジンが発生する、課税馬力と実際の最高出力を表している。ドイツでの名称は「26/140/180PS」で、これもドイツの課税馬力と、過給なし、過給ありの出力を表したものだ。メルセデス・ベンツのスーパーチャージャーは、キャブレターに空気を強制的に流し込む仕組みで、スロットルペダルを床まで踏み込むと、"丸の鋸" でコンクリートを切断するような甲高い音を発した。



シャシーは、同年6月に、ロンドンのロングエーカー通り127-130番地の、ブリティッシュ・メルセデス社に発注された。資料によればこれを仲介したのはミラー大尉とあるが、おそらくレーシングドライバーのアラステア・ミラー卿だろう。ミラー卿はロンドンのウェストエンドに高級車の代理店を構えていた子爵で、サーキットでは立派な成績を残したものの、私生活はスキャンダラスなものだった。1961年には、11歳の少女を虚偽の理由で連れ去ったとして実刑判決を受けている。この事件の公判で明らかになったところによると、ミラーは14歳の女学生と結婚するというスキャンダルを起こしたのち、1922年に離婚。以来、3回の離婚と3回の破産を経験し、さらには窃盗や強制わいせつ罪の前科もあった。

仲介者はともかく、カーゾンのコーチビルダーを選ぶ目に間違いはなかった。バーカーは1830年以来の王室御用達で、カーゾンも1923 年1 月にベントレー3 リッターのボディを依頼していた。ロールス・ロイスがひいきにしたコーチビルダーとしても知られ、1922年には実験的な" 10EX " のシャシーに、航空機の技術を応用した特別な軽量ボディを架装している。バーカーはカーゾンのメルセデスにも航空機の技術を使ったが、"10EX"とは異なる手法だった。一般的な木骨フレームに細長い金属を格子状に組んで間を埋め、それを薄いスポンジ状のゴムで覆って、外側にアルミニウム製のパネルをかぶせたのである。

こうして完成したスリムな2座のボディは、リアが絞り込まれて先の尖ったボートテールになっていた。両サイドに付いた魚雷の形のツールボックスは、ステップの役割も兼ねている。というのも、ドアの深さが通常の半分しかないためだ。ドアの下を厚く残すことで、ボディの剛性を最大限に高めたのである。サイドとシャシーはカーゾンのトレードマークであるライトブルーにペイントされ、アルミニウム製ボンネットなど上面部分のパネルは磨き上げられた。これは父親が競馬で使っていた青と銀のカラーを踏襲したものだ。



このメルセデスは、1930年7月にハウ伯爵の名でRACブライトン・ラリーにエントリーし、加速コンテストでクラス優勝を果たした。翌月にはアイルランドに渡り、アルスター・オートモビルクラブのクレイガントレット・ヒルクライムに出走。ハウはその直前にブガッティ・タイプ43でアルスター・ツーリスト・トロフィーにも参戦していた。ヒルクライムにはメルセデスだけでなく、アルファ・ロメオ6C 1500とブガッティもエントリーしている。ブガッティでは無制限ツーリングカークラスで、メルセデスが無制限スポーツカークラスで優勝したほか、その日の最速タイムもたたき出した。

ハウがメルセデス36/220で参戦したのは、この2回だけだったようだ。先のツーリスト・トロフィーでは、マシントラブルでリタイアすると、その後はメルセデスのピットでレースを見守った。このとき、優勝したルドルフ・カラチオラの38/250 SSにいたく感銘を受けたハウは、高額での買い取りを申し出て、その週のうちに38/250を自分のものにした。そして、これもバーカーに送ると、元のジンデルフィンゲン製のボディに換えて、バーマブライトと呼ばれる軽量なアルミ合金でボディを造らせた。ハウはこの車を愛用し、レースはもちろん長距離ドライブでも使用した。

長年モータースポーツ史家として活躍したリヴァーズ・フレッチャーは、この2台をドライブする機会に恵まれた。そのときの様子を次のように回想している。

「レズリー・キャリンガムと私は、ハウ伯爵と共に、2台のメ
ルセデスで朝のドライブを楽しんだ。ハウは2台の比較をしたかったので、まずはレズリーと私がレズリーの運転で38/250で走り、ハウが36/220で続いた。私たちは役割を交代しながら何度か乗り換え、私も2台を少し運転できた。それまでどちらも運転したことがなかった私にとって、ベントレー・スピード6に比べて38/250のハンドリングが非常に軽いのは思いがけない発見だった。加速も素晴らしく、ブロワーを使わずとも申し分なかった。私がブロワーを使わなかったのは、やり過ぎて伯爵の元でまたドライブするチャンスを逃してはいけないと慎重になったからだ。36/220のほうがステアリングは重く、コーナリングも劣った。たぶんレースよりツーリング用のセットアップだったからだろう。だが、私はどちらの車もたいへん気に入った」

「ハウの38/250への愛情が冷めることはなかった。常にツー
リング仕様にしておいて、仕事でロンドンのシティーに行くときなど、あらゆる機会に使っていた。そういうときも彼はヘルメットとゴーグル姿だった。対して、他の重役はスーツに山高帽で、しかもほとんどが伯爵の半分ほどの年齢だった」

ハウは36/220も長距離ドライブに使い続けていた。1931年4月には、サザン鉄道のカーフェリー、TSSオートキャリアーの処女航海で英仏海峡を渡っている。その頃には、大ぶりな牽引ヒッチを装備していた。おそらくレーシングカーを移動するのに使ったのだろう。従甥にあたる現ハウ伯爵は、私にこう話してくれた。「これはレースのためにヨーロッパ大陸へ渡ったときである可能性が高いと思う。この年はブガッティ・タイプ51(4月のモンテカルロ、6月のモンレリー、7月のニュルブルクリンク)か、アルファ・ロメオ8C 2300(6月のル・マン)で参戦していた」

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.)  Transcreation: Kazuhiko ITO( Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words: David Burgess-Wise 

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