メタリックに輝くランボルギーニの偉大なるショーカー・マルツァル

1967年ランボルギーニ・マルツァル(Photography:Max Serra)

最も偉大なショーカーの一台は、これまでほとんど人の目に触れずに眠りについていた。我々オクタンが特別に運転を許された貴重なワンオフ・プロトタイプ、それがランボルギーニ・マルツァルである。

1967年5月7日、太陽が眩しい日曜日のモナコの昼下がり、F1グランプリのスタートを数分後に控え、プリンス・レーニエ三世が運転席に身を滑り込ませた。その隣には妻のグレース妃が座り、伝統のパレードラップに出ようとしている。翌日にはその写真が世界中に配信されるはずで、フェルッチォ・ランボルギーニは得意の絶頂だったに違いない。創立からわずか4年しか経っていないアウトモビリ・ランボルギーニにとって、途轍もない宣伝となることは疑う余地がなかった。

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ランボルギーニのエンブレムを付けたその車は、若きマルチェロ・ガンディーニがベルトーネのために生み出した最新作であり、その前年のミウラと同様、闘牛にちなんで「マルツァル」と名付けられていた。最も有名なショーカーになりつつあったその車は4名分のシートとミドシップの2リッター6気筒エンジンを備え、ほとんどガラスで出来た宇宙船のように見えた。

マルツァルはその年の3月のサロン・ジュネーヴのベルトーネ・スタンドに初めて登場し、話題をさらった。観客はマルツァルの異様なボディを信じられないような表情で見つめていた。ベルギーのメーカーであるグラバーベルの協力を仰いで製作した4.5平方メートルのガラスとガルウィングドアによって、コクピットは透明な泡のように見えたのだ。

「ショーでの評判に胸を撫で下ろした」と語ってくれたのはマルチェロ・ガンディーニその人である。「見る人が驚いて、口をあんぐり開けてくれればショーカーは成功作と言える。実は私はちょっと心配していたんだ。というのも、ジュネーヴに向けて送り出すほんの数時間前、ベルトーネのスタジオで床掃除の男が咥えたばこで箒に寄りかかりながらゆっくりと車を見渡し、がっかりしたというように首を振ったのを見かけたんだ」

マルツァルのプロジェクトは1966年夏、ミウラ成功の熱気が冷めない頃に始まった。ジュネーヴで世の中を驚かせるのがベルトーネの伝統であり、ガンディーニは翌年用のショーモデルとしてその頃のスポーツカーとはまったく異なるものを考えていた。

「ショーカーの美しさとは、デザイナーに許された自由を映すものだ。ひらめきは必要なく、ルールにとらわれることなく、ただ行うだけだ。私はガラスで覆われたガルウィングドアの4シーターを作りたかった。ラフスケッチを描き、サンターガタの友人に技術的な手助けを求めた。先日亡くなったエンジニアのパオロ・スタンツァーニだ」

ガンディーニが必要としていたのはリアに横置きに搭載できるコンパクトな新型エンジンだった。そこでスタンツァーニは事実上4リッターV12を半分に切った直列6気筒を提案した。「私たちはマルツァル・プロジェクトの最初からかかわっていた。パワートレーンを提供することになっていたからね」と当時を語るのは、かつてのランボルギーニのテクニカル・ダイレクターにしてミウラの技術開発チーフを務めたジャン-パオロ・ダラーラだ。

「ミウラが大評判になって、若かったスタンツァーニと私、そしてベルトーネにいたガンディーニは何というか大胆で向こう見ずだった。リアシートのスペースを生み出すためにはV12エンジンをカットするしかなかった。マルツァルはミウラよりも6cmしか長くなかったので、V12を積むのは到底無理な話だった。そこでミウラのエンジンブロックの鋳造を担当していたボローニャの会社に6気筒を作ってくれないかと改造を頼んだ」

そのエンジンは今日に至るまでサンターガタで製作された唯一の6気筒である。エンジンはギアボックスと一体鋳造されたせいで、ギアボックスのリンケージは通常とは逆さま、つまり左ハンドルから遠い右手前が1速となった。マルツァルの最も驚くべき特徴はコクピットの全長に及ぶ巨大なガルウィングドアで、4人が同時に乗り降りできるようになっていたが、その大きさとガラスのために複雑なメカニズムを必要とした。

「ドア開口部の大きさは最大の課題だった」とガンディーニは言う。「ドアを確実に開けたままにするユニットがなかったため、自分たちで新機構を作らなければならなかった。私たちはステアリングラックを改造し、スチールケーブルで動くプーリーとスプリングを使用したが、システムは重く複雑で正確に作動させるのは容易ではなかった。もうひとつ、車が転倒した際の安全性も問題となったが、マルツァルはワンオフのプロトタイプだったからそこまで考えなくても良かった」

ジュネーヴ・ショーの後、マルツァルは検査のためにサンターガタ・ボロニェーゼに運ばれた。マルツァルは延長したミウラのシャシーを使用しており、それはランボルギーニのシャシー製作を請け負っていたマルケージからベルトーネに供給されていた。シャシーナンバーは「Type P200 Marzal chasis 10001」というもので、ランボルギーニの記録簿には載っていない。シャシー前後には大掛かりな改造が施され、特にリア部分はミウラのシャシーのフロントセクションを前後逆さにして使われていた。ガンディーニはマルツァルはあくまでショーカーであり、市販のことは一度も考えていないと語ったが、ランボルギーニのエンジニアは少からず考えたことはあるはずだ。フェルッチォ・ランボルギーニ自身も、ミウラの下のレンジを受け持つ4座モデルの開発をもくろんでいたことは間違いない。ご存知のように、その後V8エンジン搭載の2+2のウラッコが登場、だが4座のV12エスパーダのデビューは1968年になってからである。

「私はマルツァルが当時一番美しい車だと思っていた」とジャン-パオロ・ダラーラ。「2+2のコンセプトカーは非常に魅力的だったが、すぐにこれは市販できないと決断した。ほんの数キロ、ただゆっくりと運転した際に、その重量配分も機械的な面も完成度はまだまだだと感じた。ボブ・ウォーレスもほとんど開発する時間がなかったと思う。正直なところ、1967年当時のランボルギーニはまだ新しく小さな会社で、ミウラの開発と生産に全力で取り組んでいた。新しい画期的な2+2モデルに割く余裕などなかったんだ」

「最大の理由はエンジンで、2リッターエンジンではランボルギーニが期待する性能に届かなかった。パワーは確か175psほどだったと思う。それではカスタマーが満足しないだろうし、コストもとても認められないものだった。顧客が12気筒と同じぐらいの金額を6気筒モデルに使ってはくれないだろうと判断し、それ以上計画は進められなかった」

編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words:Massimo Delbo Photography:Max Serra

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