メタリックに輝くランボルギーニの偉大なるショーカー・マルツァル

1967年ランボルギーニ・マルツァル(Photography:Max Serra)



それにもかかわらず、マルツァルはグランプリ・ウィークエンドに向けてモナコに送り出された。その前の年、フェルッチォはミウラで同様のことを行い手応えを得ていたからである。

「ミウラはモンテカルロまで自走して行った」と半世紀前をダラーラは振り返る。「だがマルツァルは長い距離に耐えられないということで、輸送されることになった。最大の目的はグランド・ホテル・ド・パリの正面玄関に停めることだったからだ。フェルッチォは強い意志と先見性を持った男だったが、国際的なコネクションなどはなかったはずだ。その彼がいったいどうやってグランプリ・レースの前に、大公に壊れてしまうかもしれないマルツァルを運転させることができたのかは、今もって謎のままだ」

その件についての公式な記録は残っていない。有名なランボルギーニ研究家のステファノ・パジーニによれば、仕掛け人はランボルギーニの草創期から関係の深かったフランス貴族出身のエティエンヌ・コルヌイユだという。モナコ・グランプリの後、マルツァルはテストのためにランボルギーニに送られ、その後ベルトーネに戻された。「給油するために私たちはトリノ近郊の小さな村にあるガソリンスタンドに出かけた」とガンディーニはいう。「一番面白かったのはガソリンスタンドの店員の表情だったね」

1967年10月には、マルツァルはアールズコートで開催されたロンドンショーのベルトーネ・スタンドを飾り、続く1月には、ベルギーのブリュッセルでの「オートサロン・エトランジェ・エキシビション」に出品された。その後間もなくマルツァルはアメリカでの宣伝ツアーに向けて船積みされる予定だったが、積み出し港のジェノヴァで書類に不備が見つかったうえに税金の問題が発覚、税関に差し押さえられてしまった。それからなんと一年以上も野ざらしで埠頭に留め置かれたのである。地中海の潮風と湿気は大きな損害を与え、再びベルトーネが取り戻した時、マルツァルは輝くばかりのショーカーではなくなっていた。その後数年間倉庫の中に放置され、ベルトーネが自社のミュージアムで展示することを決めた際に小規模の修復と塗装が行われた。その時に新しいシフトノブとステアリングホイールが取り付けられたというが、そこでマルツァルのヒストリーは一旦停止する。

止まった時計の針が動き出したのは2011年のことだ。マルツァルは他のプロトタイプとともにコモ湖畔ヴィラ・エルバでのRMオークションに出品された。カロッツェリア・ベルトーネの倒産を受けて、従業員に支払う金を工面するためである。そこでヨーロッパのあるコレクターが落札したが、お世辞にも良いコンディションとは言えなかった。

そこから徹底的なレストア作業が行われたが、ショーカーとしての輝きを取り戻すためには5年間を要したという。ボディの下半分は酷く錆びついており、コクピットにも、おそらくはジェノヴァの埠頭に放置されていた間に水が浸み込んでいることが明らかになった。レザートリムもボロボロになっていた。ユニークなメカニズムは30年以上もまったく手入れされないままで、6気筒エンジンは完全にオーバーホールされた。少なくともシリンダーブロック以外は他のランボルギーニと同じパーツを使うことができた。

レストアの最大の問題は、オリジナルのボディパネルをできるだけ残しながら、錆びついたボディを修復することだった。マルツァルのボディはアルミ製エンジンリッドを除けばすべてスチール製である。隠れた部分で発見されたオリジナルのペイントを参考に、正しいカラーにリペイント、インテリアもまたオリジナルのシルバー・レザーを忠実に再現して作り直された。

ヘッドランプは錆びついていたが、オリジナルと同じマーシャルが見つかり、中でも幸運なことにガラスは無傷で残っていた。「最も時間がかかったのは、フロントとリアのバンパーを作り直すことだった。それぞれ、非常に小さなラバーとレザーのパーツで出来ており、ネジと接着剤でフレームに取り付けられていた」とコレクションの担当者は言う。

編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words:Massimo Delbo Photography:Max Serra

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