プリンス自動車のインサイドストーリ― 第3回│プリンスとミケロッティ

文:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA) 資料:井上一穂氏(Kazuho INOUE)

これから二回に分けてお伝えする内容はプリンス自動車とイタリアのカロッツェリアの深いかかわりについて。今回はプリンスとミケロッティの話。

プリンス自動車とイタリアのカロッツェリアに関する調査に本格的に取り組むことにしたのは、一枚の絵がきっかけとなっている。プリンスにゆかりのある方のお宅で見せられたスケッチ。それは、クルマのデザイン画としては異例ともいえる成り立ちをしていた。

まず、一瞥して絵画のようである。すなわち、クルマのデザインを伝えるためのレンダリングには不要な背景が描かれている。さらに違和感を覚えたのが日付、デザイナーの署名のほかに、日付が記載されており、しかも、その日付は1月1日。これは何か特別なものだと直感した。

署名はジョヴァンニ・ミケロッティ。描かれているのはプリンス・スカイラインスポーツ。日本車で初めてイタリアのデザインを纏った、歴史的に意味のあるクルマである。

ミケロッティが描いた青いスカイラインスポーツクーペの絵画的なレンダリングを所蔵していたのは井上家。百貨店の高島屋を定年退職後プリンスに務める、という異例のキャリアを持つ井上猛さんのご遺族を往訪した際に初めて目にした。この時、真先に浮かんだ疑問は、本来、プリンスを吸収した日産自動車が保有すべきレンダリングを、どうして個人が所有しているのだろう、というものだった。美しいレンダリングを前に、その絵画的タッチ、日付、そして個人蔵と、頭の中はすっかり混乱していた。

これらの謎解きは後述するとして、井上猛さんの話から始めよう。

井上さんは元々が高島屋百貨店の家具売り場を任されていた方で、高島屋を退職後、お得意様のひとりとして厚い信頼を得ていた石橋正二郎氏の口添えにより、部長待遇でプリンスに入社、デザインを担当した。

プリンスに在職中の1959年(昭和34年)11月から1961年(昭和36年)7月の2年間、自動車デザインの勉強のためイタリアへ留学している。井上さんは1902年(明治35年)生まれなので、イタリアに渡ったときの年齢は57歳である。(正確には誕生月が12月なので56歳と11ヶ月でイタリアへ発ったことになる)

海外渡航が厳しく制限される中、渡航枠を得るため日本貿易振興機構(JETRO)の試験に合格し、イタリア語を独学で勉強、留学にこぎつけるだけでも並々ならぬバイタリティーを要したことだろう。

この留学は、石橋家に対してせめてもの恩返しがしたいという、明治気質な強い意志に裏打ちされたもの。ご遺族によれば、井上さんは亡くなるまで、毎年石橋家への墓参を欠かさなかったそうである。

井上さんのイタリアにおける2年間の活動は、幸いにも詳細な記録が残っている。その記録から、スカイラインスポーツは井上猛さんの存在なくして誕生しなかった様子がはっきりとうかがえる。

イタリアでデザインされた美しいクルマをつくろう。スカイラインスポーツの根幹をなすこの発想は、中川良一さんによるものである。中川さんは戦時中、若くして航空機用の「栄」エンジンや続く「誉」エンジンの主任技師となった日本を代表する技術者の一人で戦後はプリンスの重役を務めていた。

スカイラインスポーツの種が仕込まれた瞬間を示す面白いエピソードがある。1989年(平成元年)7月8日付日刊自動車新聞に掲載された中川さんの随筆。その随筆には、1955年(昭和30年)に欧州を往訪したときの様子が綴られている。

中川さんは1955年(昭和30年)にジュネーブモーターショーを視察し、イタリアのカロッツェリアによるスポーツカーの美しさに驚く。さらに同じ旅行中、ロケットで有名なスイスのエリコン社を、防衛庁(当時)の嘱託として訪問している。その時の忘れられない経験として次のような話が記されている。

それは中川さんがエリコン社の重役であるガーバー博士と技術懇談を行なっていた時のこと。懇談中のガーバー博士のところに秘書が来て何やら耳元でささやくと、博士は急にそわそわして話が進まなくなってしまった。そこで中川さんがたまりかねて尋ねると、博士は「実は、待ちに待ったクルマが、今、玄関に届いたらしい」と答えた。

そのままでは懇談どころではなさそうなので、では一緒に拝見させてください、と、懇談を中断。そそくさと玄関まで出てみると、そこにはアイボリーホワイトのメルセデスベンツ300SLガルウィングが佇んでいた。

ガーバー博士は中川さんがわざわざ官命で往訪するような立派な大人である。その博士をも虜にするクルマの存在を目の当たりにしたことで、中川さんのなかにある種の変革が起こる。しかも、中川氏は懇談直前に訪れたジュネーブショーで、眩しいばかりのイタリアンカロッツェリアの作品群を脳裏に焼き付けたばかりだった。

結果としてこの経験が中川さんを再び奮い立たせることになる。中川さんは随筆に記している。この時に、美しいイタリアンデザインのスポーツカーをつくることが私の夢になったのだ、と。

ここで少しだけ脱線を許していただけるならば、中川さんの心境はスタジオジブリの映画「風立ちぬ」を観て明瞭になった。「風立ちぬ」は零式艦上戦闘機(零戦)にかかわったもう一人の天才設計者・堀越二郎氏を採りあげた作品である。劇中、「飛行機は戦争の道具ではない、ヒトを運ぶ商いの道具でもない。美しい夢なのだ」といった台詞がでてくる。堀越氏だけでなく中川さんを含む多くの航空機エンジニアも同じような思いをしていたことだろう。

それが敗戦後の政策に
より、ほとんどのエンジニアは美しい夢を追うことが許されなくなってしまった。みな一様に意気消沈する。中川さんも例外ではなくそのひとりだった。ただし中川さんの場合は防衛庁の顧問としてかろうじて空との関係を維持することができた。ところが、そんな防衛庁の仕事で訪れた先で、クルマもまた美しい夢になりうることを実感する経験をし、以後、その夢の実現に邁進していくのである。

ただし、その夢がスカイラインスポーツとして実現するまでは、そこから5年の歳月が必要となる。


文:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA) 資料:井上一穂氏(Kazuho INOUE)

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