プリンス自動車のインサイドストーリ― 第3回│プリンスとミケロッティ

文:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA) 資料:井上一穂氏(Kazuho INOUE)



デザイン委託先選定に際して、井上さんが最も頼りにしたのが、ジオ・ポンティ教授から紹介されたロドルフォ・ボネット氏だった。

ボネット氏が井上さんからの相談を受けて推薦したのがジョヴァンニ・ミケロッティ。ミケロッティはピニンファリーナなどと較べ小規模な所帯で、それ故、融通や小回りが利く。駆け出しともいえるプリンスとの相性は良いだろう。これがピニンファリーナなどの大御所が相手となると、そうはいかない。費用が高額化するだけでなく、逆にプリンスの方がピニンファリーナに御される事態にもなりかねず、結果としてプリンスにとって荷が重くなる。

そもそも、短時間でスポーツカーを仕上げるならば、ミケロッティしかない、という
のがボネット氏の考えだった。ボネット氏の言葉に意を強くした井上さんがミケロッティを推挙する書簡をプリンスに送ったのが、先述の通り3月29日のことである。

ところが、この後もひと悶着ある。肝心のプリンスが難色を示す。早速4月4日付で中川さんから井上さんに、デザインの委託先としてはギア社の方が好適ではないか、との返信が送られてくる。

これを受けて井上さんも再度ギアと折衝するのだが、結局4月30日にギア側から、スポーツカー試作辞退の正式通知が井上さんにもたらされる。ギア社の辞退表明によりプリンスもミケロッティを了承。即日の4月30日、ようやくスポーツカーの試作委託はミケロッティに決したのである。

その後の詰めは速かった。5月9日にはミケロッティと仮契約を行ない、デザイン作業の準備に着手する。当初の日程では10月10日の完成を目指していたスポーツカー、すなわちスカイラインスポーツだったが、一ヶ月弱の空走期間のため、車両の完成予定は大幅に遅れることになる。

以上のような経緯で、プリンス初のスポーツカー、スカイラインスポーツのデザインはミケロッティに託されることになった。尚、ミケロッティに対してもプリンス本社の意向で、井上さんとの共同デザインとすることはできないかとの打診がなされているが、ミケロッティはこの申し入れをきっぱりと断っている。

当初、スカイラインスポーツの台数は1台を予定していた。その1台をその年の10月25日から開催される東京モーターショーに展示しようというのがプリンスの目論見である。ところが、デザイン委託先決定でのごたごたで、とてもその日程は守れそうにない。この混乱に乗じて、井上さんと中川さんは一計を案じる。それは次のようなストーリーだった。

東京モーターショーへの出品に全てを賭けてスカイラインスポーツの製作を進めていくと、万一、完成日程が遅れた場合せっかくのスカイラインスポーツのお披露目の場を失うことになる。安全策として、11月3日から開催されるトリノショーにも出展できるよう手配する。ただし、東京モーターショーの会期は10月25日から11月7日なので、1台で東京とトリノに対応することは不可能。したがって、ここは2台、あらかじめ製作することとしたい。

この案がプリンスの役員会でも了承され、ミケロッティには2台が発注された。当初、ミケロッティに託されたスカイラインスポーツにはコンバーチブルしかなかった。4気筒のグロリアをベースとしているためエンジンが非力で、オープンカーにでもしない限りスポーツカーとは名乗れない、と考えてのことである。コンバーチブルの車体色は日本を表わす白、と最初から決められていた。

そこに急遽2台目の試作が決定する。中川さんもそして当の井上さんも、東京モーターショーへの出展は最初からあきらめていた。その代わりトリノショーに2台展示できるよう準備を進めた。井上さんの提唱で製作されることになった2台目のボディはクーペに決定。車体色は提案者の井上さんに一任される。ここで井上さんが選んだのが青。イタリアといえば赤なのだが、トリノショーに展示されることを前提に赤は遠慮して青を選んでいるあたりにも、深慮遠望の井上さんらしさがにじんでいる。ちなみに後年、晴れて東京モーターショーに出品されたスカイラインスポーツは、
赤く塗られていた。

これで賢明な読者諸兄は冒頭の絵の謎が解明できたことと思う。蛇足を承知で書き連ねるならば、まず、この絵の題材は井上さんの提唱で誕生した青いクーペでなければならない。井上さんが奔走したことで、ミケロッティがスカイラインスポーツを受注し、しかも、もう一台エクストラとしてクーペがつくられたことにちなんでいる。

この絵は、ミケロッティから井上さん個人に贈られたものだった。井上さんがもし、キリスト教圏のひとであったならば、絵に記された日付は1960年12月25日だったことだろう。日本人は元旦に年賀、すなわちプレゼントを交換すると思いこんでいたミケロッティは、迷わずこの絵に1961年1月1日の日付を記入することにしたのである。

文:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA) 資料:井上一穂氏(Kazuho INOUE)

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