ロードスターとして使用されていたブガッティ・タイプ51の再生物語

Photography: Matthew Howell Archive Photographs: Adriano Cimarosti



アン・イティエはブガッティを降りても、レースキャリアに終止符を打とうとは思っていなかったようだ。58歳となった彼女が引退してカップブルトンで喫茶店を開業しようとした1953年時点でも、彼女はル・マン24時間に5度の出場という女子記録を保持していた。記録には、1937年の流線型アドラー・トルンプ・レンリムジーネを"レース男爵" の異名をもつフシュケ・フォン・ハンシュタインと組んで挑んだ挑戦(40周で壊れたため、両名ともリタイア)、モンテカルロラリーへの7回の出場、さらにT51Aの単独運転で30を超えるレースやヒルクライムへの参戦、これには1938年にケイ・ペターと組んだパリ〜ニースへのエントリーが含まれている。

サミー・デイヴィス(訳註:英国の著名ジャーナリスト/レーシングドライバー、1887〜1981年)はイティエについてこう回想している。

「(パリ〜ニースは)アンが英語を学んだ貴重な機会だったと皆そう言うでしょう。アンが覚えた言葉は『ケイ、止まって!』だけでした。その後もイティエとレースとの関係が途切れることはなく、1960年代までフランスのモータースポーツ機関のために尽力し、1935年に彼女とジャン・デロームが設立したプライベート・ドライバーの協会でずっと働き続けました。彼女は1980年にカンヌで亡くなりました」



彼女のT51Aはその後どうなったのだろうか。レース漬けの日々が終わると、他の数多くのグランプリ・ブガッティがそうであったように、GPボディを下ろして2座ロードスターへとボディが載せ替えられた。誰によって、またどこで架装が行われたのかは定かではないが、可能性としては、いずれも特別なスポーツタイプのコーチワーク製作に長けていたアメデ・ゴルディーニや、かつてのゴルディーニのパートナーであったカメラーノの関与が考えられる。また、どの時期にT38Aエンジン(排気量は大きいが、力は控えめな過給器付き2.0リッター)に換装されたのかも不明である。痕跡はすべて消されているためだ。単に無神経なオーナーによって、くたびれたレーシングユニットが載せ替えられた可能性もある。

リ・ボディは明らかに戦前に行われていたものの、生まれ変わったT51Aが登場する最初の記録の日付は1951年10月、"T38A" 2シーター・トルペードボディ、シュザンヌ・ラングレの所有車として登録されている。この女性の夫はパリのモンパルナス地区のデ・ヴォージラール通り338の2番地に住むメカニック、ピエール・ラングレという人物で、1950年10月から1951年6月にかけ、ブガッティT37を所有していた。彼がロードスターを買うために、T37を手放した可能性が高いとロージエは推測する。

ロードスターの次の記録は1957年2月、ブガッティの専門家ジャン・レンヌが経営する自動車工場の売却記録(おそらくラングレ夫人から委託)である。ガレージはパリの北に位置するデュ・ソシュール通り8番地にあった。ある時点でボディは変更を受け、ブガッティの馬蹄形ラジエターは丸みを帯びたカバーで覆われ、ヘッドライトにはフェアリングが施された。

このブガッティを買い取ったのはエリック・ニールセンという25歳のデンマーク人だ。ニールセンは、コペンハーゲンのフレゼレクスベアにあるデンマークのプジョー代理店を営んでいた父が亡くなり、デンマークへ帰路の途中でブルターニュを訪れたのである。ところがデンマークの税関は、ブガッティの実際の購入費用よりも輸入関税を多く支払うよう厳しく課税したという。

1959年頃、フュン島の町、スベンボーへ転居したニールセンは、地元のガレージでブガッティのレストアに着手した。ボディを取り去り、シャシーの上面の錆を落とした。時代錯誤なラジエターカウルも捨てた。

1962年に、いくつかのクラブイベントに参加した後、ニールセンは「35Cグランプリシャシー」と説明して売却を試みるが、買い手を引きつけるのは難しいと知り、最終的には、楽観的に特定はできないものの、フィゴニ・エ・ファラシによる1930年代のボディワークと見立てたイェンス・P・ルースバーグに委託、1964年に売却されたようだ。

しかし、スウェーデンの購入者、アラン・ソーダーストロム(マルメにある大手BMWディーラーで、かなりの戦前車をコレクション)にとって重要だったのは、ボディワークではなく、自分のT35Cに足りなかったスーパーチャージャーとGPのステアリングが装着されていたという事実だった。1977年、ブロワーとステアリングが取り外され、ガレージの隅でホコリを被っていたロードスターに注目したのは、コレクションのガイド付きツアーに参加していた若き建築家、ヘンリク・スコー・ニールセンであった。

編集翻訳:崎山知佳子(office Sky M) Transcreation: Chikako SAKIYAMA (office Sky M) Words: David Burgess-Wise  

無料メールマガジン登録   人気の記事や編集部おすすめ記事を配信         
登録することで、会員規約に同意したものとみなされます。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事