真っ赤なモンスター2台のワークス・ビッグヒーレー

左:1959年オースチン・ヒーレー3000"SMO 744"、右:1964年オースチン・ヒーレー3000"BMO 93B"(Photography:Matthew Howell)

オースチン・ヒーレー3000のワークス・ラリーカー、その最初と最後のモデルをドライブした。2台が見せた強さと性格の違いには、ビッグヒーレーが成し遂げたラリーの歴史が秘められている。

ビッグヒーレーにうってつけの道だ。流れるような高速コーナーが続き、見通しがよい上に交通量が少ない。そこを2台の元ワークスカーが、スポットライトを輝かせ、6気筒エンジンの咆哮を轟かせながら駆け抜ける。私の前を走るポール・ウールマーは、すぐに差を広げていったが、私に合わせて徐々にペースを緩めてくれた。彼がドライブするのは、2台のラリーアイコンのうち古いほうのSMO 744で、ずっと標準型に近い。私がドライブする BMO 93Bは、それより5年あとのモデルで、激しい競争で培われた経験が生かされている。

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10マイルの走行を楽しんだあと、車を交換。すると、違いはすぐに明らかになった。元来た道を疾走しながら分かったのは、古いSMOのほうがややソフトで、飛ばしやすいということだ。少なくとも、名手ラウノ・アルトーネンほどの腕を持たない私のような者にとっては…。SU製トリプルキャブレターによるパワーデリバリーは、後期のBMOが搭載するウェバー製に比べると、パンチにこそ欠けるものの、よりユーザーフレンドリーだ。

運転席の横に斜めに突き出すギアレバーは、可動範囲は相当に長いが軽く動く。対照的に、BMOのギアシフトは中央に位置し、重いため力を必要とするが、はるかに明確な反応だ。どちらの車も、チューリップ・ラリー仕様のストレートカット・ギアレシオで、3速と4速は間にオーバードライブを挟まなければならない。つまり、シフトアップは3速、3速オーバードライブ、4速、4速オーバードライブとなる。BMOはオーバードライブボタンがシフトノブに付いているので楽だが、SMOはダッシュボードに付いているため、腕が3本ほしくなるようなときもある。

細かな点にも違いがある。ステアリングは初期型のSMOが細身のウッドリムで軽く握りたくなるのに対して、後期のBMOのものは小径で太く、レザーで覆われている。また、BMOはスイッチ類の間隔が広い。これには合理的な訳がある。個別にヒューズをかませたり交換したりできるほうが好都合だと経験を通して学んだのだ。例えばアルプスの山中でフロントの片側にダメージを負っても、使えなくなるのはそちら側のライトだけで済む。

2台とも見事な出来で、バランスがよく、高速コーナーでも地面をしっかり捉えて離さない。初期型のSMOですら、ハンドリングと挙動で標準のヒーレーを大きく凌ぐ。ウールマーのすぐ後ろを走りながら、リアをぐっと沈み込ませて落ち葉を蹴立てる様子を見ていると、ベルギーやフランスで似たような道を豪快に飛ばしていた50年以上前の姿がまざまざと目に浮かんでくる。

この2台は、SMOが1959年、BMOが1964年と、オースチン・ヒーレー3000のラリーキャリアの最初と最後を飾ったモデルである。また、その間のラリー競技自体の変容も反映している。主にアマチュアのドライバーが比較的標準仕様の車で公道を舞台に争った時代から、プロフェッショナルなドライバーがスペシャルステージで戦う競技へと変わり、車両の特殊性も強まっていった。



今でこそ"3000"は主にラリーでの活躍で有名だが、その初期型は抜群のオールラウンダーだった。先行モデルであるオースチン・ヒーレー100の競技デビューは、1953年のリヨン-シャルボニエール・ラリーで、グレゴー・グラント/ピーター・リース組がステアリングを握った。その年はさらにミッレミリアに2台、ル・マンにも2台が出走。それだけでなく、ボンネビルの塩湖に2台を持ち込んで、速度と距離で新記録を樹立した。

4気筒ヒーレーの最終進化形が1955年の100Sだ。だが、1950年代半ばとはいえ、既にスポーツカーレースはよりレースに特化したマシンの独壇場となりつつあった。さらに1956年後半には6気筒エンジンの100/6が投入される。しかし、そのパフォーマンスは短期的に一歩後退しており、1957年は新モデルでの競技参加が少なかった。とはいえ、トミー・ウィズダムがUOC 741を駆ってセストリエーレ・ラリーに参戦している。また、ミッレミリアには12ポートのシリンダーヘッドを装着して出走。これによって、2639ccの直列6気筒エンジンは吸排気が大幅に改善され、出力、トルクとも向上した。翌シーズンは競技参加も増え、ビッグヒーレーは数多くの成功を収めた。

市販車の最終組み立ては1957年にオースチンのロングブリッジ工場からMGのアビンドン工場に移り、ヒーレーのラリー活動は1958年からブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)のコンペティション部門が責任を負うこととなった。登録ナンバーに付く「MO」は、アビンドンで製造されたことを示す。一方、サーキットレース用の車両は引き続きウォリックにあったヒーレーの本拠地で準備された。

名高いマーカス・チェンバーズがBMCのコンペティション部門責任者として目を光らせる中、1958年のアルペン・ラリーには総勢5台の100/6で参戦。パット・モスがレディーズカップを制し、ビル・シェパードが総合7位でフィニッシュした。モスとコ・ドライバーのアン・ウィズダムは、続くリエージュ-ローマ-リエージュでPMO 201を駆って4位に。翌1959年には、ジャック・シアーズ/ピーター・ガーニエ組がチューリップ・ラリーのGTクラスで優勝した。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:James Page Photography:Matthew Howell

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