1400台のフィアット チンクエチェントがイタリアに大集合!

Photography Max:Serra



500は1957年7月4日に誕生した。「新しい」を意味するヌォーヴァ500という名が付いたのは、"トポリーノ"(「二十日(はつか)ネズミ」の意)と呼ばれていた以前の500と区別するためだ。この車がやがて国を変える存在になるとは、フィアットは知る由もなかった。単に、100億リラ(500万ユーロ、60年前には莫大な金額だった)に及ぶ投資を取り返すため、低価格の車を中産階級に売ろうと考えたにすぎない。ひとまわり大きな600には手が出ない庶民でも500なら購入でき、スクーターから自動車へ移行する機会になると踏んだのである。

500の生みの親は、600とトポリーノも手掛けたエンジニアのダンテ・ジアコーサだ。ジアコーサは新車のために、ミニマリズムを突きつめた空冷2気筒エンジンのリア配置や、フロントフェンダーまで覆うボンネット、鋼板をプレス加工したモノコック構造などを採用したが、これが世界を驚嘆させた。

アレック・イシゴニス卿は、ミニの構想を固めるにあたって、フィアット500が小型車の作り方を示す最初のヒントとなったことを公に認めている。ほかにもミニと500には共通点がある。それは、どちらも最初は販売に失敗したことだ。500の購買層は決して裕福ではなかったが、そうした人々の目にも、サイドウィンドウが固定式で、ホイールキャップもリアシートもない500は、あまりに"貧相"に映ったのである。

そこで、発売からわずか数カ月で二つのバージョンが登場する。ベーシックモデルの"エコノミカ"は、車内に少し手を加えて出力も2hp増えていたが、当初の49万リラから46万5000リラに値下げした。もうひとつの"ノルマーレ"は、49万リラの価格は据え置く代わりに、リアに快適なベンチシートが付き、手動式のウィンドウと基本的な換気システムを備え、さらに2hpアップしていた。

お客を大切にする正直な商売が重んじられた時代である。フィアットは、初期型の購入者全員に値引き分の2万5000リラの小切手を送って差額を埋め合わせた。これがターニングポイントだった。この日を境に、フィアット500はイタリア中の家族の一員になっていく。父親にとっては通勤の、母親にとっては買い物の足となり、若者に運転を教え、夏休みには家族全員を海辺に連れていった。

当時も今も、500は社会的格差と無関係の車だ。共和国大統領も、大勢の貧しい学生も500を持っていたし、しがないブルーカラーの労働者も、それを雇う会社のオーナーも所有していた。500が唯一の車である家庭もあれば、駐車しやすく維持費の安い500を街乗り用の2台目として使う者もいた。また、レーシングドライバー志望の若者は、この車をサーキットで思う存分に乗り回した。500はどこでも受け入れられ、誰にでも使える車だった。

やがて顧客のニーズが変化すると、500も進化していった。生産数が80万台を超えた1965年には500Fが登場する。コクピットの換気が少し改善され、マルチ・バルブスプリングの採用でエンジンも改良。安全装置が付き、ガスケット抜けが起きても排ガスが車内に流れ込まないようになった。また、新しいクラッチと強度を増したギアボックスを備え、ドラムブレーキと燃料タンクは拡大された。目に見える最大の変化は、前開きのスーサイドドアが通常の後ろ開きになったことだ。ソフトトップも新しくなり、リアウィンドウは大きくなった。



これらの変更で、500は新しい安全基準を満たし、組立作業もスピードアップした。それだけでなく、顧客の新たな要求にも応えていた。人々が以前より長距離を走るようになり、さらなるパワーやブレーキ性能、信頼性、メンテナンスの簡略さが求められるようになっていたのだ。

この頃、イタリアは好景気に沸き、社会も変化しつつあった。2台目の購入を検討する中流家庭は増えていたが、そうした人々は、500がもう少しあか抜けた車ならいいのにと考えていた。この新たなニッチ市場にぴったりの車へと500が生まれ変わるときが来たのだ。

こうして1968年9月、フィアットは500Lを発表した。金属がむき出しだったダッシュボードはプラスチックパネルで覆われ、バンパーの上には細いガードが付き、ドアシルに沿ってクロームのラインが入った。500Lは、学校の送り迎えをする母親や若い中間管理職の間で、瞬く間にステータスシンボルとなっていった。

500が最も成功した時期を担ったのが"F"と"L"だ。この2バージョンだけで227万2092台が製造された。そして1972年秋に、最後のバージョンとなる500Rが登場する。わずかにデチューンしたフィアット126用の594cc新エンジンに、126と同じシンクロメッシュのギアボックスを搭載。"R"の製造台数は23万5000台強で、イギリスには輸入されなかった。これを最後にフィアット500の時代は幕を閉じる。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Massimo Delbò 

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