プリンス自動車のインサイドストーリ― 第4回│プリンスとフランコ・スカリオーネ

資料提供:井上一穂氏(Kazuho INOUE)

プリンス自動車とイタリアのかかわりについて掘下げる第二回は、フランコ・スカリオーネの話。

それは大先輩の何気ない一言から始まった。1988年の夏から秋にかけてのある日、社内の有志数名で中川良一さんの話をうかがう機会を設けたことがある。話がおわり、懇談時間になった時のこと。中川さんは一枚の写真を取り出して見せてくれた。日産自動車村山工場の奥にある倉庫で中川さんが撮影したその写真には、わたしの知らないクルマが写っていて衝撃を受けた。

写真には埃まみれになった3台のクルマがあり、そのうちの2台までは存在を知っていた。1台は1963年の東京モーターショーに出品されたプリンス1900スプリント、そしてもう1台はプリンスが開発し、世に出ることのなかった国民車CPSKである。正体不明のクルマは、CPSKほどの大きさをもつクーペだった。

そもそも中川さんがその写真を取り出すきっかけになったのは、わたしがフランコ・スカリオーネの名を口にしたからである。同じ会社に勤める身内意識と、全員が額を寄せ合うことのできるくらいの人数だったことから、その場は終始なごやかな空気に包まれていた。そのような場の雰囲気にうながされ、雑談の話題は好きなクルマに及んだ。

本来なら日産やプリンス系のクルマで応えるべきだったのかもしれない。ところがわたしはスカリオーネによるティーポ33ストラダーレの名を挙げてしまった。これは全くの本音で、4灯の33ストラダーレは現在でも最も気になるクルマの一台である。 



そこで登場したのが上記の写真。この小さなクーペは何ですか、と訝るわたしに、大先輩である中川さんはただ一言、調べてごらんなさい。この時に中川さんがみせたわたしを覗きこむような表情は今でも忘れることができない。拙著「プリンスとイタリア」は、この一瞬に端を発している。

わたしがそのクルマの名称を知るのは、それから3年後のことだった。その名はCPRBという。

1991年の暮のこと。大掃除の準備で廃却書類の仕分けをしていると、偶然、廃棄候補のなかに小さなクーペの図面を発見する。近くにはそのクーペのベースである国民車の図面も揃っていて、どちらも廃棄候補だった。図面が描かれてから30年近くも残っていたのは、それまでは誰も廃棄を思いきることができなかったからだろう。とはいえ、そのままにしておくといずれは廃却されてしまう。だからといって、黙って持ち帰ることはさすがに憚られた。そこで図面管理部署の担当者にそれらの図面の貰い受けを願い出た。回答は拍子抜けするほど簡単明瞭なものだった。すなわち、日
産の図面ではないのでご随意に、とのこと。たしかに図面に残る会社名は富士精密工業で日産自動車ではない。お役所的なのも、時には悪くないものだと痛感した。

尖った鉛筆で丁寧に描かれた二枚の外観三面図。その
図面から国民車はCPSK、小さなクーペはCPRBと呼ばれていたことが判明したのである。 ここで簡単にCPSK、CPRBの意味するところを説明しておこう。

まず、これらのクルマが企画された1950年代後半から60年代初頭にかけてのプリンス、正式には富士精密工業におけるエンジンの名称について。富士精密工業が最初に開発したエンジンは1500ccのFG4A。この略号のFは富士精密、Gはガソリン(エンジン)、4は気筒数。そしてAがエンジンモデルを意味している。FG4Aに続くFG4Bが1900ccエンジン、FG4Cは水平対向599ccエンジンを示している。

プリンス初期の車両名称も同様の略語から成り立っている。ガソリンエンジンによる最初の乗用車はプリンスセダン:AISH。この略語は最初のAがFG4AのA、続くIはシャシ変番、その次のSは車型でこの場合はセダンのS、トラックならT、バン型ならVになる。最後のHはその前のSとセットになっていて、セダンとしてH=アルファベット順で8番目、のボディであることを表している。

この定義に沿ってCPSK、CPRBを読み解くと、CPSKはFG4Cを用い、Pと称されるプラットフォームでセダンとしてK=11番目のボディをもつクルマ、CPRBはCPSKとエンジン・プラットフォームを共用したR=ランナバウト(クーペ)でクーペボディとしては2番目のクルマということになる。ちなみにプリンスとして最初のクーペボディはスカイラインスポーツで、型式はBLRAである。

文:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA) 

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