プリンス自動車のインサイドストーリ― 第4回│プリンスとフランコ・スカリオーネ

資料提供:井上一穂氏(Kazuho INOUE)



いよいよCPRBの話。CPRBの誕生にはいくつもの偶然が折り重なっている。まずはCPRBをデザインしたフランコ・スカリオーネとの接点について。

当コラムの前回に登場した井上猛さん。1959年11月に最新のデザイン手法を学ぶためにイタリアを赴いたものの、1960年4月になっても思うような研修先には恵まれていなかった。このままではスカイラインスポーツに関連した雑務のみでイタリア滞在期間が終わってしまう。おそらくそのような危機感を抱いたことだろう。というのも、研修先のあてもないまま渡伊してから、ピニンファリーナ、ツーリング、アレマーノ、ツァガート、スカリエッティ、ベルトーネ、ギア、そしてスカイラインスポーツのデザインを委託することにしたミケロッティにも研修の受け入れを打診していたのだが、それらの全てから断られていたからである。井上さんにとって最後の望みが、ベルトーネを辞して独立したばかりのフランコ・スカリオーネだった。



それまでは周到に事前に約束を取り付けてから訪問していた井上さんは、ここで一気に賭けにでた。明治生まれの井上さんらしく、げんを担いで天長節(天皇誕生日)を選び、いきなり、何の前触れもなしにスカリオーネの自宅を訪ねている。1960年4月29日のことである。これが奏功した。1916年生まれのスカリオーネにとってひとまわり以上も年長の1902年生まれの井上さんが、見知らぬ地で孤軍奮闘している姿に、独立したばかりの自らの姿を投影したのかもしれない。

スカリオーネはその場で井上さんの受け入れを快諾し
ている。ちなみにスカリオーネの新しいオフィスが開業するのは、それから3カ月以上も先の8月5日のことだった。

第二の奇蹟はその年の11月に起こる。スカイラインスポーツの晴れ舞台であるトリノショーを視察するためイタリアを訪れた中川良一さんが、日本に帰国する直前の11月14日に、井上さんが自ら切り開いた研修先であるスカリオーネのオフィス:ステュディオ・チゼイを陣中見舞いするのである。スカリオーネはそもそも航空機にかかわることを目指していたこともあり、零戦のエンジンを設計した中川良一さんに対しては畏敬の念を抱いていた。中川さんが訪ねた日は、スカリオーネには珍しくネクタイにスーツ姿で、自分の業績についても詳しく説明している。

詳解されたスカリオーネの作品のなかにはNSUのプリンツをベースとしたスポーツカーの姿もあった。プリンスは当時、NSUからプリンスの名称について訴訟を起こされており、スカリオーネの説明のなかでNSUの部分は中川さんの印象に深く残ったことだろう。

翌朝、空港へ見送るために井上さんが中川さんを滞在先のホテルに訪ねると、中川さんはその場で井上さんにひとつの構想を伝える。それこそが、NSUのプリンツを彷彿とさせるプリンスの国民車CPSKをベースにしたスポーツカー、CPRBの基本構想だった。CPRBはスカリオーネのデザインしたNSUのプリンツ・スポーツに成り立ちが酷似している。スカリオーネが生涯にデザインした唯一の日本車の誕生、そこには、上述のような背景が潜んでいたのである。

文:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA) 

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