プリンス自動車のインサイドストーリ― 第4回│プリンスとフランコ・スカリオーネ

資料提供:井上一穂氏(Kazuho INOUE)



中川さんの突然のひらめきによるCPRB、その後の進捗も偶然を味方につけたものだった。プリンス本社からスカリオーネに対し、正式にCPRBのデザイン委託がなされるのは翌1961年3月のこと。それまではイタリアで制作されたスカイラインスポーツの日本への出荷、そしてスカリオーネとの細かな契約条項の詰めなどに費やされている。

スカリオーネが5案のデザインスケッチをプリンスに送付するのは、契約締結から約1カ月後の4月12日。短期間にいくつものデザイン案をまとめることができたのは、この話が具体的に持ち上がった1月の時点から、スカリオーネが構想を始めていたことの証だろう。プリンスは木型まで完成させることをスカリオーネに求めていた。ところが独立したばかりのスカリオーネには、まだ特定の木型工房との深いつながりもできていない。そこで井上さんが一計を案じる。スカイラインスポーツで世話になったサルジョットの活用である。ちょうどプリンスがスカイラインスポーツを日本国内で生産するにあたり、サルジョットの工房から指導の職人を派遣してほしいと願い出ていた時期でもあった。

CPRBも視野に入れると、サルジョットたちの訪日は
不可欠。井上さんの必死の口説きにより、ようやくサルジョットと配下の職人3人が日本行きを決めるのは6月のことである。

こうして期せずしてプリンス、否、井上さんはスカリオーネとサルジョットを結びつけてしまった。スカリオーネがCPRBの後に手掛けたランボルギーニ350GTVのボディを制作したのがサルジョットの工房だったのは、このようないきさつによるもので、ここにもプリンスの足跡が大きく影響しているのである。


冒頭にも記したように、そこには3台のクルマ、プリンス1900スプリント、CPSK、そしてCPRBが写っていた。この写真は何度か雑誌でもとりあげられたことがあるので目にした方もおられることだろう。埃にまみれた3台の姿は痛々しい。

1980年代前半に撮影された時は、たとえ埃が積もった状態であっても、3台は確かに存在していた。それらが歴史的にも重要なR380―Ⅰと併せて廃棄処分にされたのは1985年だったといわれている。

貴重な4台が村山から運び出される姿をみて、即座に関係方面にスクラップ作業の中止を申し入れた日産のスタッフがいる。彼の弁によると、電話先の廃棄業者の担当者は、4台が廃棄場に到着すると同時にスクラップにしてしまった、と応えたとのこと。それは、あまりに不自然な迅速さだったので、それらのクルマがひっそりとどこかに持ち去られた可能性を感じたそうである。わたしも、いつの日か、これらのクルマたちが忽然と目の前に現れることを願ってやまない。

文:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA) 

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