ランボルギーニ・ミウラの生みの親が選んだ自分への誕生日プレゼントとは?

1967年ランボルギーニ・ミウラP400(Photography: Max Serra)

ジャン-パオロ・ダラーラはランボルギーニ・ミウラの生みの親の一人である。80歳の誕生日に、とうとう彼は自分自身にミウラをプレゼントすることを決意した。

あなたは自分の一番最近の誕生日プレゼントを覚えているだろうか?もし覚えていたとしても、これほど特別なものではないはずだ。レーシングカー・エンジニアにして元ランボルギーニのチーフエンジニアだったジャン-パオロ・ダラーラが自分の80歳の誕生日に自分のために買ったプレゼントは、彼以外の人にとっても忘れられないものだ。1967年ランボルギーニ・ミウラP400なのである。

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ダラーラこそそれに値するはずだ。彼はおそらくこの世の誰よりもモータースポーツの世界で成功した人間なのである。彼の会社の何らかの技術的援助なくスタートするレースも、レースでの勝利も存在しないと言っていい。

イタリアのパルマ地方の小さな町出身のジャン-パオロは子供の頃から車を愛し、彼の頭にはミッレミリアの出場車の姿が刻み込まれていた。彼は航空力学のエンジニアになることを夢見て、1950年代半ばにミラノのポリテクニコに入学した。実はそこでエンツォ・フェラーリがレーシングカーのエンジン・テストを行っていたのである。フェラーリが才能ある若いエンジニアの紹介を頼んだ時、候補者リストの一番上に載っていたのがダラーラの名前で、それが彼の人生を決める転機となった。

「私は1959年にフェラーリの技術部門に加わった。カルロ・キティが私のボスだった。彼はエンジンとシャシーの両方の設計に秀でた稀な人物で、同僚にはエンジンのスペシャリストのフランコ・ロッキ、シャシー担当のワルター・サルバドーリがいた。彼らは二人とも当時技術者の天国といわれていたオフィチーネ・レジアーネ出身だった。私は彼らから毎日学ぶことができた。フェラーリはまだ小さく、エンツォ自身が初出社の日に迎えてくれた。そして設計から開発製作まですべての過程を見る時間があった」

彼はほとんどオフィスを離れることがなかったという。構造計算をしたり、ギヤやサスペンションの図面を引いたりと仕事に没頭する日々の中での楽しみは、新しいレーシングカーのシートを試しにやって来るドライバーたちを見ることだった。それは恵まれた環境ではあったが、ダラーラは1962年にフェラーリからマセラティに籍を移す。

「ただ純粋にサーキットの現場に出て働きたいと思ったんだ」と彼は若き日を振り返った。「マセラティはレース部門を持っていなかったが、しかしそのおかげで私がレースの現場に出ることができた。初めてのレースのことはよく覚えている。1962年のセブリング12時間レースで、私は25歳だった。そのレースではロジャー・ペンスキーとブルース・マクラーレンが乗って5位に入った。セブリングに行くためにプロペラ機のDC6で海を越えたが、それはまるで火星に行くようなものだった。私はまさにそういう仕事をしたかったんだ」


1963年、マセラティでルーカスの機械式燃料噴射システムに取り組んでいた時、車好きの友人であるコラード・カルペッジアーニがダラーラとフェルッチオ・ランボルギーニを結び付けた。

「彼の計画を聞いてチームに加わることを決めた」という。ダラーラは外部のコンサルタントとして、3.5リッターV12エンジンからできるだけのパワーを引き出そうとしていたジオット・ビッザリーニとともに働くことになった。他にも若い才能、フェラーリとアバルトから来たアキッレ・ベビーニ、オリビエロ・ペドラッツィがいた。数カ月後にダラーラの生涯の友人となるパオロ・スタンツァーニも加わり、彼らがアウトモビリ・ランボルギーニの基礎を築いたのである。

「あの頃を振り返ると、今ではなおさら、フェルッチオだからできたと確信している。つまりランボルギーニのように自動車業界では新参者だけが、私のように若く、自分が経験不足であることに気づいていない人間を雇うことができたのだろう」

編集翻訳:高平高輝 Transcreation: Koki TAKAHIRA Words: Massimo Delbo Photography: Max Serra

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