ランボルギーニ・ミウラの生みの親が選んだ自分への誕生日プレゼントとは?

1967年ランボルギーニ・ミウラP400(Photography: Max Serra)



ランボルギーニではすべてが新しく、ほとんどの時間は必要とされるものは何でも自分たちで設計し、製作することに費やされた。それを手掛けたのはとても若く、情熱的で、時にはうぬぼれたチームだったが、常にフェルッチオのモットーが後押ししてくれたという。「試してみなければ、新しいものを生み出せないじゃないか」

挑戦を恐れないそんな姿勢が、未来的で驚くべき製品を生み出した。たとえば最初の市販モデルである350GTに採用されたDOHC技術は、フェラーリでさえ市販モデルにはまだ採用してはいなかった。ただし、それと引き換えに信頼性と開発に要する時間が犠牲になり、初期の顧客は開発ドライバーとしての役目も担っていたという。そのわずか3年後にはミウラが登場する。それを定義するために世界は「スーパーカー」という新しい言葉を生み出さなければならなかった。

「ミウラにエンジンを横置きにミドシップするというアイディアは、サー・アレック・イシゴニスの偉大な発明品であるミニを眺めていた時にチームが思いついたんだ」とダラーラは打ち明ける。「彼は画期的な小型車のスペースを有効利用するために横置きエンジン方式を取り入れた。ランボルギーニはただそれをキャビンの背後に移しただけ、そうすればホイールベースを長くすることなく、V12エンジンを搭載できると考えた。すべての始まりはこの思い付きで、ミニの影響はペドラッツィのスケッチを見れば一目瞭然だ」

1965年11月のトリノ・ショーにローリング・シャシーを展示した時、彼らは衣装を誰に任せるかをまったく考えていなかったという。あらゆる決定はその場その場で決められていた。裸のシャシーを車として完成させるという基本的な計画は、フェルッチオとヌッチオ・ベルトーネの会合で突如動き出したものだったという。今もダラーラは、彼のチームはフォードGT40を気に入っており、何か似たようなものを作れないかと考えていたことを思い出すという。

「ちょうどクリスマスの頃だったと思う。会社は休日だったが、ベルトーネとベルトーネのコマーシャルマネジャーのエンツォ・プレアロ、そしてフェルッチオとの会議のために雪が降る中を運転して出かけたことを覚えている。最初の提案を見て話し合うためだ。ところが見たとたん、ひと目で恋に落ちた。ベルトーネに『もうこれ以上触らないでくれ。これで完璧だ』と頼んだくらいだ。フェルッチオは車を見て"気に入った、これで我々は歴史を作る。だが売るのは難しい"と言ったんだ。それでも彼もベルトーネも5年間で50台は堅いと予想していた」

1966年のジュネーヴショーで歴史は始まり、その数日後、グランプリが開催されるモナコまで走って行った。その後のことすべては今では伝説のようなものである。

編集翻訳:高平高輝 Transcreation: Koki TAKAHIRA Words: Massimo Delbo Photography: Max Serra

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