ランボルギーニ・ミウラの生みの親が選んだ自分への誕生日プレゼントとは?

1967年ランボルギーニ・ミウラP400(Photography: Max Serra)



昔の作品をいくつか
ジャン-パオロ・ダラーラはイタリアのレース界で最もよく守られてきた秘密だったかもしれない。その訳をここで明かそう。

編集翻訳:高平高輝 Transcreation: Koki TAKAHIRA Words: Richard Heseltine

ほぼすべてのレースを制したダラーラ
ジャン-パオロ・ダラーラを評してモーターレーシング界の大物と言う人がいるかもしれない。しかし、そんな説明では実はまったく不充分である。現代のレースのほとんどのカテゴリーはいわゆるワンメイクシリーズだが、ダラーラは地球上のすべてのチャンピオンシップ用に、それこそフォーミュラ3からインディーカーに至るまであらゆる種類のマシンを製作しているのだ。そして次には、過去20年間の偉大なスポーツプロトタイプカーのいくつかに(たとえばアウディ)、彼が表面には表れない貢献をしていることを理解しなければならない。F1を別にすれば、彼と彼のマシンはモーターレーシングのほとんどすべてのジャンルを制覇しているのだ。

これらすべての成果は、航空力学を修めたエンジニアとして1959年にフェラーリでキャリアをスタートさせてからの長い年月の間に成し遂げられたものだ。その後彼はマセラティに移り、さらにランボルギーニに加わり、最初は350GTのシャシーとギアボックスの開発に携わった。彼はまたジオット・ビッザリーニのV12エンジンをロードゴーイング・グランツーリスモ用として適合させる仕事も任せられたという。



アレハンドロ・デ・トマゾのためにフォーミュラ2マシンを設計する前には、エンジニアとしての技術を1960年代の他の多くのモデルに貸し与え、その結果、当代随一のテクニカル・ディレクターとして知られるようになった。これが1970年のウィリアムズ505F1につながった。ダラーラはさらにパンテーラのシャシー設計を担当し、その後ランチア・ストラトスの開発にも携わった。

1972年にダラーラ・アウトモビリを設立してからは、デザイナーとしてばかりではなく、ビジネスマン、しかも有能なビジネスマンとしても働くことになった。自国マーケット向けにスポーツレーサーを製作して必要とされたリラを稼いだのである。パルマの近くのヴァラーノ・デ・メレガリに開いた小さなファクトリーには、たちまち大勢の顧客が詰めかけるようになったが、同時にダラーラは大手メーカーのコンサルタントとしての仕事も続けていた。

1970年代半ば、彼はフィアットX1/9のグループ5レーサーを開発したが、それがランチアの競技部門のボスだったチェーザレ・フィオリオの目に留まり、彼はダラーラにランチア・ベータ・モンテカルロ・グループ5レーシングカーの製作を依頼する。その車は1980年のメイクス世界選手権を獲得、それはダラーラにとって初めての国際的なタイトルであり、グループ6のLC1、そしてグループCカーのLC2とランチアの協力関係は進展していった。

年表を一気に1994年まで早送りしよう。ダラーラ・アウトモビリは後に333SPと呼ばれることになるマシンの開発をフェラーリから請け負う。そのスポーツプロトタイプは異例に長く活躍し、通算56勝を挙げることになる。333SPはもともと米国をターゲットにしたマシンだったが、その顧客兼レーシングドライバーでもあったアンディ・エヴァンスが、1990年代半ばにインディのボスだったトニー・ジョージとダラーラを結び付けた。チャンプカー・レーシングは当時分裂騒動のただ中にあり、トニー・ジョージは新しいIRLシリーズを立ち上げるために15台のダラーラ製シングルシーターの製作を依頼した(ライバル・コンストラクターであるGフォースにも同様に15台を発注した)。1998年のエディ・チーバーによるインディ500の勝利は、イタリアのメーカーがこの伝説的なレースで挙げた58年ぶりの勝利だった。

過去20年以上にわたって、ダラーラの会社は、KTM XボウからマセラティMC12、アルファ・ロメオ8C、そしてブガッティ・ヴェイロンまであらゆるモデルの開発に重要な役割を果たしてきたが、ロードカーそのものを手掛けてはいない。サッカー狂の伝説的エンジニアは今なお意気軒高でまったく引退する気配も見せない。そうでなくては我々世の中の車好きががっかりするというものである。

編集翻訳:高平高輝 Transcreation: Koki TAKAHIRA Words: Massimo Delbo Photography: Max Serra

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