恐ろしいほど速いロードゴーイングレーシングカーのヒストリー

Photography: Amy Shore, Mike Dodd, Nick Dungan



主要パーツで唯一助言を必要としたのがウィンドスクリーンで、ブレイクは、Dタイプのデザイナーで空力家のマルコム・セイヤーに協力を仰いだ。「すっきりしたフロントウィンドウにしたいと伝えた。洒落たものでなくてもいいが、既製品以上のものだ。マルコムは、カウルに正確にフィットするよう図面を描いてくれた。カウルをいじりたくはなかったからね。マルコムは最高のヤツだったよ」

ウィンドスクリーンとボディワークが接する部分のパネルも、セイヤーが図面をひいた。それを元にブレイクが木型を作り、ブレイク曰く「ソフトアルミニウム」でアビーパネル社が成形した。ブレイクはウィンドスクリーンピラーのマスター治具も作り、これも他のスペシャルパーツと共にアビーパネル社が手掛けた。フロントガラスは、やはりブレイクが製作した治具を使ってトリプレックス社が製作した。

プロトタイプが完成すると、ウィリアム・ライオンズがワークショップまで見にきた。ブレイクはそのときのライオンズの言葉を覚えている。「これをニューヨーク・ショーに持っていけ。きっとその場で完売だ」と。

記録によれば、DタイプXKD555がプロトタイプXKSS701として完成したのは1957年1月14日のことだ。1月18日には、モーターショーで展示するため、ジャガー・カーズ・ニューヨークへと旅だった。その間に、プロダクションモデルの製作図面が作られた。

しかし、XKSSはあと15台しか製造されなかった。よく知られているように、1957年2月12日にブラウンズレーンで大きな火災が発生したことが理由だ。組立主工場とXKSSへのコンバート作業を準備していたサービス部門が被災し、コンバート前の量産型Dタイプ9台と治具や工具を焼失した。ピーター・ジョーンズは、炎で発生した激しい旋風をはっきり覚えている。組立工場の天井からつり下げていた重い看板が平行になびくほどだったという。

大きな被害にもかかわらず、作業員の努力やサプライヤーの支援で間もなく生産は再開し、製造途中で焼失を免れたXKSSも完成した。しかし、売れ行きが鈍かった上、ベースとなる9台のDタイプを失ったことでプロジェクトは終わり、最後の1台(XKD550/XKSS769)は、1957年7月17日にニューヨークへ出荷されている。



製造された16台(のちにDタイプに戻されたものもある)のうち、12台はねらい通りアメリカへ渡り、大半はレースで使われた。2台はカナダへ、1台は香港へ行き、1台はイギリスに残った。その後、ジャガーはさらに2台をDタイプからXKSSにコンバートしている。

プロトタイプのXKSS701は初レースで優勝した。ルイジアナ州マンスフィールドでのレースで、ドライバーはジャガーUSAの副社長ジョン・ゴードン・ベネットだ。しかし、ベネットがトロフィーを持ち帰ることはなかった。生産台数が少ないとして、SCCAはXKSSをプロダクションカーとして認めなかったのだ。結局、ジャガーが対抗しようとしていたメルセデス・ベンツ300SLガルウィングの独り勝ちは続いた。

XKSSをどう評価するべきだろうか。1957年にこの車を造った人々は、その長所を特に意識していなかったようだ。開発ドライバーのノーマン・デュイスは、MIRAでXKSSをテストした際にロードカーとしての欠点を指摘している。だが、人々の記憶に残るのは、その信じられないような加速力だろう。1950年代後半の一般的な自動車に慣れた人にとっては、理解を超えるものだった。今にして思えば、XKSSはジャガー史上最も偉大なスポーツカーのひとつだったのだ。

XKSS HISTORY 編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO( Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words: David Lillywhiite 

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