恐ろしいほど速いロードゴーイングレーシングカーのヒストリー

Photography: Amy Shore, Mike Dodd, Nick Dungan

XKSSは、ル・マンでの活躍とその時代の終焉によって生まれた車だ。この恐ろしいほど速いロードゴーイングレーシングカーのベースとなったのは、1955年の"量産型"ジャガーDタイプだった。ホモロゲーション取得とプライベートドライバーへの販売を目的に生まれた量産型は、1956年にかけて67台が製造され、1台1台がMIRAでテストされた。

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だが、レースの世界が立ち止まることはない。生産が完了するころにはDタイプの競争力は衰え、特に顧客が出走するような小規模なサーキットでの、スプリントレースが苦手になった。価格もジャガーMkⅦサルーンの3倍近くに上ったため、売れ行きは芳しくなかった。1956年11月には25台がブラウンズレーンの本社に売れ残っており、旧式の印象は強まる一方だった。そうしたなか、1957年1月21日に「新たなスポーツレーシングモデル」が発表された。



プレスリリースには、「有名なル・マン・タイプのジャガー」だが、「オーソドックスなフルタイプのウィンドスクリーンや折り畳み式のソフトトップ、各種メーターが揃った計器パネル、クッションの効いたシート、ラゲッジラック、バンパーなど、スポーツカーレースだけでなく、高速の長距離ドライブにも適した車に改良されている」とある。

このニューモデルこそ、量産型Dタイプに公道用の装備を加えて誕生したXKSSだった。定価が6900ドルとドル建てだった理由は、プレスリリースによれば、「通常の公道使用とスポーツカーレースの両方に適したタイプを求める声がアメリカで高まっている」ことに応えて生まれた車だったからだ。

ここでいうレースとは、スポーツカー・クラブ・オブ・アメリカ(SCCA)が管轄するものを指していた。XKSS誕生の本当の理由は、高価な在庫を現金に変えることだったのではないかと考える者もいるが、当時ジャガーのワークスチームを率いていたフランク"ロフティ"イングランドは、その説を否定している。

「XKSSを造った本当の理由は、SCCAがDタイプをプロダク
ションスポーツカーとして認めなかったからだ。ブリッグス・カニングハム(当時アメリカでのジャガーのトップチーム)は、SCCAのレースで優勝したいと願っていたので、私たちもXKSSを50台製造する決定をしたのです」

本当に50台造るつもりがあったのかを確認する術はないが、ジャガーがSCCAに宛てた手紙で40台と表明していたのは事実だ。とはいえ、40台であっても現実的な数とは思えない。すでにあった25台のDタイプ以外に、15台を新たに製造する必要があるからだ。製造ラインはずいぶん前に解体されていたから、パーツも充分に残っていなかっただろう。

しかし、Dタイプをモディファイしてプロダクションカーの定義に当てはまるものにするよう、カニンガムやSCCAのドライバーらが圧力をかけたことは充分に考えられる。ただ、アメリカのジャガー販売店はそれほど前向きではなかったという。XKSSが途方もないパフォーマンスを発揮したら、新しいスポーツカーのXK150や、まだ開発中だったEタイプのお株を奪うことになるからだ。

Dタイプをロードカーにコンバートする方法を考え出したのは、アメリカ人のロバート・ブレイクだった。ブレイクは第二次大戦中にアメリカ軍とともにイギリスにやってきて、イギリス人女性と結婚。帰国すると、優れた金属加工の腕を買われてカニンガムのチームに加わり、まずニューヨークで、のちにフロリダに移って、カニンガムのレーシングカーの製造や塗装を一手に引き受けた。1955年のル・マンで、ウィリアム・ライオンズや当時のチーフエンジニア、ウィリアム・ヘインズと話したことをきっかけに、同年11月にジャガーのコンペティション部門に加わった。

コンバートについて検討するために、ブレイクはシンプルな方法を取った。倉庫からコンペティション部門のワークショップに量産型Dタイプを1台(シャシーナンバーXKD555)持ってきて、変更箇所を決めると、その場でパーツを製作したのだ。そもそもXKSSのプロジェクト自体が自分の発案だったと、ブレイクは1990年のインタビューで語っている。Dタイプを見ながら、「こいつからいいロードスターを造れるぞと思った」ブレイクは、そのアイデアをウィリアム・ライオンズに伝えたという。「"やってみろ"と言われたよ。私が何かアイデアを思いつくと、いつもそう言ってくれた。そこで、1台持ってきて仕事に取りかかったのさ」

この主張を完全に裏付けることはできないが、ブレイクをよく知る人々はあり得る話だと考えている。当時、コンペティション部門で働いていたピーター・ジョーンズもそのひとりだ。XKSSを造ったスタッフで存命なのは、おそらくジョーンズだけだろう。「ボブ(ブレイク)の言葉にはサー・ウィリアムも耳を貸した。あの偉大な人を前にするとみんな恐れおののいたが、ボブはリラックスしたもので、よくちょっとした仕事を頼まれていた」

プロジェクトが認められると、ブレイクはあっという間にまとめ上げた。「取りかかって2週間ほどで、ウィンドスクリーン以外の全パーツが揃った」と振り返る。まず、2座のコクピットにするため、Dタイプの運転席と名目上の助手席とを分けていた中央の仕切りを取り除く必要があった。ジョーンズによると、これがモノコックタブの剛性に影響するかどうかで議論になったという。だが、結果的に問題はなかった。

ドライバーの頭の後ろに付いた特徴的なヘッドフェアリングも取り外された。さらにブレイクは、計器パネルを製作し、ソフトトップの昇降メカニズムとサイドウィンドウを設計。また、バンパーをデザインすると、1台目の分は自ら手作業でスチールから造り上げ、これにクロームめっきを施した。2台目以降のバンパーは鋳造アルミニウムだったが、ジョーンズは「象の牙のような」バンパーをヤスリで削ってボディにフィットさせなければならなかったと振り返っている。ボンネットとテールは手作業で成形されたため、形状が1台1台かなり異なったのだ。

XKSS HISTORY 編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO( Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words: David Lillywhiite 

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