ヴォアテュレット MASERATI II|JACK Yamaguchi's AUTO SPEAK Vol.15

インディアナポリス・スピードウェイに勢ぞろいした3台マゼラティ。左1939、40年インディ500優勝"Boyle Special"8CTF、中:V4 16気筒ザガート・ロードスター、右:1930年インディ500で12位フィニッシュしたティーポ26B。(Photography:Jack YAMAGUCHI)



ヴォアテュレットとして登場したティーポ26はその直8を2.5Lまで拡大し、同国のライバル、アルファ・ロメオと競うことができた。アルフィエリ・マゼラティは、一時期、革新的な前輪駆動GPカーを構想したが、野心的過ぎると断念する。稀代の技術者、レーシングドライバーであったアルフィエリは、1932年、5年前のレース負傷の後遺症が原因で他界した。

1931~35年の750kg規定で造られた8C/8CMについては、巨人タツィオ・ヌヴォラーリがアルファ・ロメオ・チームを率いていたエンツォ・フェラーリと喧嘩別れし、マゼラティに移ったエピソードにとどめる。

1938年からのGP規則は、過給3.0L、自然給気4.5Lと排気量別最小重量に変わる。スーパーチャージド・エンジンに長い経験を積んできたマゼラティは、前者を選ぶ。新型/新エンジン名8CTFの後2文字はテッサ・フィッサ、一体型シリンダーブロック/ヘッドを意味する。高圧過給エンジンの弱点であったガスケットを使わない構造だ。DOHC直列8気筒エンジンの基本設計は、アルフィエリの遺産である4CM・4気筒1.5Lに範をとり、最高出力365bhp/6300rpmを発した。

8CTF設計者はエルネスト・マゼラティだ。オイルタンクを兼ねたマグネシウム製Xメンバーで補強した箱断面鋼管梯子型フレームを用いた。フロントサスペンションは、ダブルウィッシュボーンとトーションバー、リアは1/4楕円リーフスプリング支持のリジッドアクスル、4輪油圧作動式マグネシウム・ドラムブレーキを採用、ボディはアルミ叩き出しである。

マゼラティ・ワークスは、1938年トリポリGPに2台の8CTFを投入した。対するはメルセデス・ベンツW154で、車重は重いがV12エンジン450hpを発生する。イタリア領の観客を喜ばせたのが8CTFの1台で、先頭を走るW154を数ラップにわたって追撃した。

ただ、マゼラティ(そしてアルファ・ロメオ)は、勝ち目のあるヴォアテュレットに注力したことで、エンジンの信頼性に問題を抱えた8CTFには手がまわらなかったという。

1930年代、ヨーロッパの大きな池(大西洋)を隔てた対岸、アメリカ東海岸は、欧州製スポーツレーシンングカーを所有し、走らせる富裕エンスージアストたちのメッカであった。ニューヨーク州ロングアイランド・ルーズヴェルト・レースウェイに集う欧州車の中にマゼラティを見たのが1937年インディ500優勝、38年2位入賞のベテラン、ウイルバー・ショウであった。彼は、友人のチームオーナー、マイク・ボイルに「この車だったら絶対にインディに勝てる」と告げた。

アメリカ進出に興味があったマゼラティだが、イタリア式喜劇的展開もあった。まず送ってきたのが主力製品の1.5Lヴォアテュレットで、あまりにインディには非力過ぎる。ボイルとショウは、典型的なアメリカ・インディカーに対して数倍の価格であるにもかかわらず、GPカーの8CTFを注文した。だが、真冬の大西洋を海路輸送中に純水を満たした冷却系が凍結し、シリンダーブロックが壊れて到着した。これを完全分解修理したのはボイルのチームクルーで、ワークス活動ではなかった。

1938年、ウイルバー・ショウは、1919年以来、最初の外国車によるインディ500優勝を遂げた。おどろくべきは、翌40年に、まったく同じ車で連続優勝したことだ。ショウは、1941年500にも同チーム、車で3年連続優勝に挑むが、ホイール破損でクラッシュに終わった。

ウイルバー・ショウは、現役引退後の1945年にインディアナポリス・モーター・スピードウェイの社長に就任した。

文・写真:山口京一 Words&Photography:Jack YAMAGUCHI

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