スポーツカーレースのリアリティに迫る│ファインダーを向けた先には

スポーツカーレースの英雄たち

英国ヘインズ社刊の人気シリーズ『In Camera』の、『Sports Car Racing in Camera』最新刊では、1960年代の勇ましいレースシーンにポール・パーカーが焦点を合わせている。その中のハイライトをいくつかピックアップしてみよう。

現代の"リバイバル"イベントでは感じられない真剣勝負ならではの迫力。スターリング・モスが、ブルース・マクラーレンやロイ・サルバドーリのフォードGT40、エルヴァBMW、フェラーリ250 GT SWBなど、変化に富んだ個性的なマシンで耐久レースやロードレースに挑む。これが1960年代のスポーツカーレースであった。それはスタードライバーたちがすべてのクラスのレースと、また時にはサーキットへの行き帰りの移動中でさえ覇を競った時代だった。ポール・パーカーは240ページにおよぶハードカバー書籍である『イン・カメラ』シリーズ最新号で、多くが危険と隣り合わせだった頃のスポーツカーレースのリアリティに迫った。彼の几帳面な性格から、完成した書籍はその時代のもっとも象徴的な写真を多用したものとなった。これはそれらのほんの一部である。


GOODWOOD TT RACE, UK
1961年8月19日、グッドウッドTTレース、英国
スターリング・モスとマイク・パークスが、それぞれのフェラーリ250 GT SWBコンペティツィオーネに駆け寄るツーリスト・トロフィーのスタートシーン。モスにとって7度目、TTでの最後の勝利になった。プラクティスで最速だったのは、身長190cm超の長身ドライバーのパークスで、彼は難しいレースを108周して2位で終えた。モスがドライブした、ロブ・ウォーカー/ウイルキンズがエントリーしたカーナンバー7、シャシーナンバー2735の250GT SWBがRhdなのに対して、パークスのマラネロ・コンセッショネアーズがエントリーしたカーナンバー6、シャシーナンバー2417のSWBはLhd。これは接近戦で追い抜きをかける場合などでは、ちょっとトリッキーだったかもしれない。




TARGA FLORIO, ITALY
1966年5月8日、タルガ・フローリオ、イタリア
スイス人ドライバー、エドガー・バーニーは非公式プラクティスの時間、すなわちコースがまだ閉鎖されていない時間に、ビッザリーニ5300GTストラーダで一般車両のフィアット・トポリーノにぶつかった。ご覧のように、見たところのダメージは大きかったがカーナンバー226はE.バーニー/ G.ニエーリのドライブでそのままレースにスタートした。だが、ヘッドガスケットを飛ばし、1周目が終わった後でリタイアしてしまった。




LE MANS 24 HOURS, FRANCE
1965年6月19〜20日、ル・マン24時間、フランス
アングリアン・レーシング・ディベロップメントがエントリーした、リチャード・フランシス・ジェラード・ロッテリー侯爵/トニー・ランフランチ組のエルバBMW GT160。レースでは29周でクラッチとバルブに見舞われた。元降下部隊中尉のロッテリー侯爵が最も注目されたのは、1960年代初頭、リスター・ジャガー"フラット・アイアン"でのレースだろう。彼は1970年11月9日にアイルランドでの交通事故で致命的な負傷を負い、28歳で亡くなった。(編集部注:掲載写真はル・マン・テスト・デイでの撮影で、カーナンバー31だが、本戦では30番を付け、31はローバーBRMタービンカーになる)




LE MANS TEST DAYS
1964年4月17〜18日、ル・マン・テストデイ、フランス
初期のフォードGT40は空力特性が不安定だった。そのコクピットで不安げな表情のロイ・サルバドーリ。ジョー・シュレッサーが1位、サルバドーリは方法に沈んだが、ともにミュルザンヌのストレートでクラッシュ。当時の問題点は、船頭が多過ぎるフォード社内の政治的要因だった。サルバドーリ、ジョン・ワイヤー、エリック・ブロードレーたちは皆嫌気がさしていた。彼らのスキルと助言は企業の強権政策によってまったく反映されず、やがてサルバドーリとブロードレイは辞任。問題点はその後も長く続いた。




SEBRING 12 HOURS, USA
1962年3月24日、セブリング12時間、アメリカ合衆国
ブリッグス・カニングハムがエントリーしたカーナンバー21のクーパー・モナコT57マセラティ(シャシーナンバーCM/1/62)を駆ったブルース・マクラーレン(写真でドライブ中)とロジャー・ペンスキーは、ブレーキと電気系統の問題を抱えながらも5位につけた。このクーパー・モナコT57には、通常のコヴェントリー・クライマックス製エンジンの代わりに、バードケージ用の2.9リッター・マセラティ・エンジンが搭載されている。リアフェンダー上の左右のフィンとノーズアップした姿勢に注目。空力のマジックが登場する以前には見慣れた光景だ。




DAYTONA 24 HOURS, USA
1967年2月4〜5日、デイトナ24時間、アメリカ合衆国
巨大なリアウィングで有名な、ジム・ホールの7リッター・シボレーエンジン搭載のシャパラル2Fは、1967年の耐久レースでは最速だった。だが、残念なことに、そのGM製をモディファイしたセミオートマチック・トランスミッションは、大排気量エンジンが発生するトルクに対しては脆弱だった。しかしGMは、より頑丈なトランスミッションの開発には消極的だった。フィル・ヒルとマイク・スペンスは、シャパラルカーズがエントリーしたカーナンバー15のシャパラル2Fシボレーで参戦。2日目早朝まで上位を維持していたが、いつものATトラブルによって225周目でリタイアに終わった。ATという弱点さえ抱えていなければ、他のほとんどのチャンピオンラウンドで勝っていただろう。デイトナでの2Fは、レースを主導していたものの、ヒルがグラベルでスキッドしてギアボックスとシャシーを壊した。




MUGELLO, ITALY
1968年7月28日、ムジェロ・サーキット、イタリア
その当時のムジェロはトスカーナで行われる真のロードレースだった。長いストレートと多くのコーナーが混在するテクニカルコースで、ミッレミリアのルートに組み入れられたこともある。これはアウトデルタがエントリーした、カーナンバー22のカゾーニ/ディーニ組のアルファロメオT33/2がスロープを登り切って着地するところ。なんとも素晴らしい眺めだが結果はリタイアに終わった。




From The Pages Of

こうしたモータースポーツが非常に多彩だった時期のシーンをより深く知りたい場合には、ポール・パーカーの『Sports Car Racing in Camera 1960-69 Vol.2』(ISBN 97809928769 44)で堪能することができる。

英国国内価格:£45。HP:www.behemothpublishing.co.uk

編集翻訳:小石原耕作(Ursus Page Makers) Transcreation:Kosaku KOISHIHARA(Ursus Page Makers)

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