完璧にレストアされた最高にエキゾチックな1台│強烈で肉体的なドライビング体験

Photography:Tim Andrew

この美しいビッザリーニ5300GTは、イギリスのロックバンド、コールドプレイのベーシストで、熱烈なエンスージアストであるガイ・ベリーマンの依頼でレストアされた。そのゾクゾクするような仕上がりを確かめる。

ジョット・ビッザリーニは優秀なテストドライバーで卓越したエンジニアだった。"250GTOの父"としてよく知られている。フェラーリを去ってから自らの名を冠した5300GTを生み出し、"GTOのバージョン2.0"と評した。当初はレース仕様として誕生したモデルだけに、その公道バージョンは、凍えるようなコッツウォルズの1日を真夏のル・マンに変えてくれた。

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1957年、エンツォに引き抜かれてアルファロメオからフェラーリに移ったビッザリーニは、水を得た魚のように設計やテストに打ち込んだ。世界中のGTレースで活躍する実験的なスポーツカーの開発に明け暮れる、モータースポーツ
けの日々。限界を突破するために完全な自由を与えられていたとのちに振り返っている。「ものの考え方やテクニック…私はすべてをフェラーリでもらった。指図する上司も付けずに、大きな権限を与えられていた」

エンツォ・フェラーリについて見聞きする話からは少々想像しにくいほどの自由だ。それはやがて突然に取り上げられることとなるのだが、その前に傑作が誕生した。1960年、ビッザリーニは250GT SWBを大胆に進化させる仕事に着手する。ピサ大学の風洞施設でより空力的なボディを造り上げ、3.0ℓV12エンジンをドライサンプ方式にして、より低く、より後方に搭載した。こうして1962年に250GTOが誕生し、歴史を塗りかえるのである。

その頃にはビッザリーニの身にも大きな変化が起きていた。"大粛清"、"宮廷の反逆"などと呼ばれる一斉退職事件だ。事の発端は、営業部長のジローラモ・ガルディーニがエンツォに最後通牒を突きつけたことだった。エンツォの妻ラウラの介入に不満を募らせ、このままでは仕事を続けられないと訴えたのだ。「では、お前は即座にクビだ」というのがエンツォの返答だった。数日後、ビッザリーニやエンジニアのカルロ・キティ、チームマネージャーのロモロ・タヴォーニら複数の幹部が、ガルディーニを支持する旨の書簡をエンツォに送りつけた。そして全員が1961年10月にフェラーリを追われたのである。

ビッザリーニのキャリアと人生、特にこの波乱の時期は、『戦争と平和』も顔負けの長編小説になりそうだ。その後の数年間にビッザリーニは幾つものプロジェクトに関与した。ATS設立とスクーデリア・セレニッシマでのレースや、ラ
ンボルギーニでのコンサルタント業務に加え、レンツォ・リヴォルタと共にイソ・グリフォも生み出した。フロントエンジンの、伝統的な意味での堂々たるグランツーリスモだ。リヴォルタにはモータースポーツへの関心がほとんどなかったが、ビッザリーニは自分が情熱を燃やす方向へとプロジェクトの舵を切ろうとした。グリフォのプロトタイプを試して、次のレーシングカーのパワーソースを見いだしたからである。

「特に気に入ったのがコルベット・エンジンだ。フェラーリ
のエンジンより優秀で、パワーは同じでもスロットルのレスポンスがより鋭かった」と語っている。ビッザリーニは、グリフォA3/L(Lは"ラグジュアリー"を意味する"lusso")と並行して、コンペティションバージョンのA3/Cを開発。いずれも1963年のトリノ・モーターショーで発表された。 



ビッザリーニはA3/CでもGTOの例を踏襲し、5.4リッターの
V8エンジンを可能な限り低く、かつ後方に搭載することに力を注いだ。これがやがて写真の5300GTとなる。モノコックシャシーとリアのド・ディオン・アクスルによって、フェラーリを凌駕するプラットフォームが手に入った。それを元に開発を進めた結果、V8エンジンではあるものの、エンジニアリングの観点ではGTOの正統な後継モデルが完成したのである。

ボディはベルトーネのジウジアーロがデザインし、ピエロ・ドローゴ率いるモデナのカロッツェリア・スポーツカーズで製造された。車高はわずか1110mm。デザインとエンジニアリングの両面で傑作である点では、当時も今も変わりはない。A3/Cの最も輝かしい瞬間は、1965年のル・マンでのクラス優勝と総合9位フィニッシュだろう。その年、ビッザリーニはイソと袂を分かつこととなる。A3/Cを引き取って5300GTと改名し、ビッザリーニの名でストラーダとコルサの2バージョンを製造。1968年の生産終了までに、イタリアのリヴォルノでイソ・グリフォA3/C とビッザリーニ5300GTが合計147台造られた。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo. )  Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Jethro Bovingdon 

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