「運転した中で最も獰猛な車」と伝説のドライバーが語るポルシェとは?

Photography:Ian Dawson

935の1号車を操るデレック・ベル。走りながら1970年代の記憶がよみがえってきたという。この暴力的ともいえるクルマが彼のポルシェ復帰への扉となったことも含めて。

935は906や908、917といったポルシェ家の優れた家系から見ると、出来の悪い息子かもしれない。しかしそれらから派生した車であることも確かである。このモンスターは1976年のマニュファクチャラーズチャンピオンシップのタイトルをポルシェにもたらし、その後の主要な耐久レースすべてに勝利した成績が何よりの証だ。

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耐久レースの世界は、このとき新しい時代に移りつつあった。その最初のシーズンが1976年である。当時、OPECは原油の出荷を停止するという暴挙に出たため、影響をもろに受けると見られたモータースポーツ界はレギュレーションを変更することでこの局面を乗りきるしかなかった。トップに位置づけられたグループ5は、開発にかなりの自由度が与えられたものの、生産車をベースにしなければならないというのが新規定の内容だった。これは政治的にも当を得た設定であった。

実際のところは見た目こそ公道を走る量産車の格好をしているが、それ以外はまったく自由といってよかった。シルエット・フォーミュラといわれる所以である。

その自由な開発があったからこそ、ポルシェやBMWはワークスカーを走らせることが決断できた。BMW3.5CSL"バットモビル"がまず最速マシーンとして登場し、ポルシェはこれに935で対抗した。

935の開発用プロトタイプは935 001といい、その後登場する数多くの935に先んじる第1号車である。そして1976年の戦いの中でもポルシェの中心となる車であった。ベースとなるのは当時出たばかりの911ターボ。といっても、それとわかるのはボディシェルだけで、他のすべてはまったくの別物である。



中身を信じがたいほど大幅に変えたのはエンジニアのノルベルト・ジンガーである。ミュンヘン工科大学を卒業後ほどなくしてジンガーはポルシェに入社した。1970年のことである。テクニカルエンジニアという肩書きが付いていたものの、ルール策定者と容赦なくやりあったのもジンガーだ。目的はただひとつ、935を勝てるマシーンに仕立てるためである。

こうして001は1975年から76年の冬に完成した。ポールリカールでテストを行ない、水平対向6気筒2.85リッターエンジンにターボを1基装着して590bhpの935の心臓部を完成させた。こうしたシーズン前のテストをもとに作られた本番用レースカー002の競争力は疑うべくもなかった。それは最初に出場したレースで証明された。

イクスとマスが乗る935 002はさっそく2つのチャンピオンシップレースに勝利した。しかし、新しく始まったチャンピオンシップで簡単に圧勝してしまうと、ルール検査官に睨まれてもおかしくない。彼らの目は空冷式インタークーラーの搭載方法に向けられた。 

編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation:Hidehiko OZAWA Words:Peter Morgan 

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