フェラーリ・デイトナと生きた人々 第2弾│デイトナを一週間でデザインした人物

octane UK

偉大なアイコン、フェラーリ・デイトナにまつわる証言を集めてみた。愛した人、造り上げた人、競わせた人がその魅力を語った。

レオナルド・フィオラヴァンティ/ デザイナー

デイトナは空いた時間に自宅でデザインしました、1週間ほどで。1966年12月、私はまだピニンファリーナで若手のデザイナーでした。当時、市販されるディーノを手がけたことで有名になりました。振り返ってみれば、私自身が手がけたフェラーリは11台。ピニンファリーナ・ストゥーディ・エ・リチェルケのCEOとして関わったフェラーリは18台でした。

かつてトリノからマラネロまでの道中を、フェラーリの役員であったピエール・ウーゴ・ゴッバートと共にしていました。彼と会話をしているうちに、私は275GTB/4の後継車について思いを巡らせるようになりました。思い起こせば当時、今ほど評価されていませんでした。サイドウィンドウ、リアウィンドウからの視界が悪いと、ドライバーからも不評でした。個人的にはカタチもいまひとつでしたし、空力特性も実は良くありませんでした。

ただ、まだデビューして間もなかった275を型落ちにする勇気は誰にもありませんでした。私はすべてのデザイン画を整え、セルジオ・ピニンファリーナとレンツォ・カレッリのオフィスを訪れることにしました。両者は私の"新型"275の提案を「クレイジー」だと言い放ち、フェラーリ社もピニンファリーナ社にも新型275計画は存在しないと、強い口調で指摘されました。デザイン画は当然ボツになると思っていたものの、二人は後に私の提案をエンツォ・フェラーリに持ち込みました。

数日後、フェラーリのエンジニアがデザイン画をもとに開発案を練ることになったと知らされました。275 のプロポーションをキープした新型案でしたから、開発はスムーズに行くと踏んでいました。そして、デザイン画のさらなる煮詰めというプロセスをスキップする異例な段取りで、1:1スケールモデルの製作を言い渡されました。これが完成するとエンツォ・フェラーリがピニンファリーナ社のアトリエを訪れ、私も打ち合わせの場に初めて呼ばれまし
た。 

エンツォはスケールモデルの周りをゆっくり歩き、
私のほうを向き、満足な仕上がりか否か問いかけました。駆け出しデザイナーの私にエンツォが質問するとは思ってもいなかったので正直、驚きました。

私は「オペル車のようにならないよう、ホイールア
ーチにちょっと奥まっているホイールを片側5cmは出したいです」と答えた。するとエンツォは目を輝かせながら6cmまで許容すると言ってくれました。私の望みを把握し、私に"6cmは出したい" と言うだけの勇気がないことを見透かしたうえでの回答だったと思います。

そこからの開発は速かったです。エンツォから6cm拡大の許可は得ていたものの、開発陣の苦労を鑑み5cmにとどめておくことにしました。開発において直面した唯一の問題は、フロントのヘッドランプカバーにプレクシグラスを採用することでした。イタリアの陸運局では、研究施設にてフレームとプレクシグラスで充分な強度が得られること
が証明されました。ただ、アメリカではヘッドランプの地上高を満たすためにリトラクタブル式を採用せざるを得ませんでした。

まさか半世紀以上も経った今でも、デイトナの話をするとは思っていませんでしたね。パリ・サロンでデビューした365GTB/4はミドシップのモダンなフェラーリ、ディーノと並んで展示されていました。伝統的なFRスタイルのデイトナは、ディーノよりも輝いているように感じたことを鮮明に覚えています。

編集翻訳:古賀貴司(自動車王国) Transcreation: Takashi KOGA (carkingdom)

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