プリンス自動車のインサイドストーリー 第7回│プリンスの営業センス

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今回はプリンスのハード面から少し離れて、ソフトな話。プリンスは類まれなセンスを発揮した企業で、それは営業面にも強く影響していた。早速、スカイラインを例に検証してみたい。

世界で最も長く影響力を保持し続けているモーターショーは、現在もフランスで隔年開催されているパリサロンであろう。入場者数は毎回150万人ほどで、その数は世界のモーターショーのなかで最も多い。世界中から人々が集まるわけは、今でもフランスが自動車のみならず、あらゆる文化の中心と認識されているからに他ならない。

格式を重んじる欧州で中核的存在のパリサロンに、日本から初めて出展したメーカーがどこか即答できる人は少ない。それは日産でもトヨタでもなく、プリンスだったのである。

プリンスがパリサロンの一角にブースを設け、初代スカイラインを展示したのは1957年のこと。早くから海外に目を向けていた理由として、プリンスを構成する人たちの特徴がある。プリンスの基礎を築いたのは、航空機で世界を相手にしたモノつくりをしてきた技術者たち、自ら手掛けたクルマを世界に問いたいという気持ちが強くて当然だろう。

数ある国際的なモーターショーのなかで、欧州を最初に選択している点にもプリンスの慧眼が光る。1950年代の当時も、世界で最大規模のモーターショーはパリサロン。かくして日本の自動車メーカーが海外で初めて出展するモーターショーとしてプリンスが選んだのは、当時、まだグランパレを会場にしていたパリサロンだった。会期は1957年10月3日から13日まで。その間、プリンスは日本国内で発表したばかりのスカイラインを展示している。

当時は東洋、それも敗戦国からの出展者には通路わきの小区画しか与えられなかった。先駆者とは常に人一倍の努力を要するものである。1957年の段階で、パリサロンに日本からクルマを展示するには、相応の苦労を伴ったことは想像に難くない。くどいようだが、この事実はプリンスの国際性の一端を示している。

ブースは小さかったが、コンパニオンは一流だった。小さなプリンスのブースに詰める2名のフランス人女性は、ひとりが1956年のミスワールドフランス代表、そしてもうひとりも1957年のミスワールドフランス代表、しかもコンパニオンふたりの着付けを担当したのは、日本美容界のパイオニアである山野愛子女史。これらの事実からも、プリンスの力の入れ具合が伝わってくる。さすがに日本からの出品は珍しかったとみえて、会場は連日の大賑わい、パリに居を構えたばかりの女優、岸恵子さんや、パリ在住の画家、藤田嗣治夫妻もプリンスのブースを訪れている。

文:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA)

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