プリンス自動車のインサイドストーリー 第7回│プリンスの営業センス

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欧州の中心的なショーであるパリサロンに、いきなり乗り込んできたプリンスに驚いたのだろう、早速、当時250万部の発行部数を誇っていた英国のサンデイディスパッチ紙が、かつての対戦国である日本からの出展車スカイラインのデザインと、プリンスブースのコンパニオンを務める女性を中傷する記事を掲載した。それはパリサロンの開催される直前の1957年9月29日のことだった。

この誹謗記事に対し、プリンスは即座にアクションを取る。記事が掲載された翌日には、当時の團伊能社長名で格調高い英文による抗議の手紙を送っている。

サンデイディスパッチに「芸者ガール」と揶揄されたプリンスブースのコンパニオンは、前述のごとく、ミスワールドコンテストの1956年フランス代表と、同じく1957年のフランス代表、いわば当時のフランスを代表する女性ふたりである。最終的に発信されたプリンスからの書簡では、その冒頭で、フランスを代表するレディーを公共の記事にて誹謗するとは何事か、と抗議している。スカイラインのことより先に、まずフランスの女性を擁護しようとする文面にも、プリンスの格調高さと国際性が滲む。



サンデイディスパッチの記事から一カ月弱、10月17日に産経新聞が事の顛末をまとめている。産経新聞の論調は、サンデイディスパッチの記事が中傷だと認めたもの。同時に産経新聞は英字版でも、プリンス・スカイラインが単なるコピー商品ではないとの論陣をはっている。

今日も存在する英国の新車試験機関MIRA(Motor Industry Research Association)が、戦後、調査のため日本に来訪した際、日本の代表車としてトヨタや日産ではなく、プリンスセダンだけを試験のために購入して帰国した事実がある。プリンスには、世界水準となりうる資質があったのだろう。サンデイディスパッチの記事も、プリンスの技術に対して一種の脅威を感じたことが背景にあるものと思われる。大きな脅威を感じたからこそ、記事の内容が冷静さを欠くものになってしまったのかもしれない。

パリサロンは今日まで長い歴史を保っている。そこに日本車として最初に展示されたのが、他ならぬプリンス・スカイラインであること、そして、自動車の本場欧州、それもパリサロンに単身切り込んで行った最初の日本メーカーがプリンスであったことを重ねて強調しておきたい。 

続いて、日本国内に目を向けてみよう。これまでプリン
スが生み出したクルマについての著述は多く、ましてスカイラインともなると、その数は枚挙にいとまがない。ここではこれまであまり語られることのなかったプリンス自動車販売(以下プリンス自販)の活動にふれてみることにする。

プリンス自販最大の功績のひとつは、スカイラインの語り部(かたりべ)に桜井真一郎氏を起用したことである。

これは日本車そのものの特徴にもなっているのだが、日本ではアノニマス(匿名性)がとても重視される。「日本車そのもの」と書いたのは、日本車のデザインも、海外から見ればアノニマスな印象を与えていることによる。
 
更にいえば日本車の場合、開発者個人が思い浮か
ぶクルマはほとんど存在しない。一方、プリンスがクルマつくりで常に意識していた欧州ではどうだろう。自動車黎明期だけでなく、1950年代から1970年代にかけて俯瞰してみても、車名から個人の名前が思い浮かぶクルマの何と多いことか。つくり手の顔が見える、とはまさにこのことだろう。

思いつくままに挙げてみよう。アンソニー・ブルース・コーリン・チャップマン、カルロ・アバルト、エンツォ・フェラーリ、アメディ・ゴルディニ、ダンテ・ジアコーサ、アレック・イシゴニス。少しコアなところでアンドレ・ルフェーブルやジャン・レデレ。エンジンやスタイリングといった個別分野でも、コロンボ、ヤーノ、ザガート、ジウジアーロ、スカリオーネなど、いくらでも特定個人の名前が浮かんでくる。
 
翻って日本のクルマに思いを馳せる場合、これほど素
直に個人名が思いつくだろうか。ほぼ唯一の例外を除いて、答えは否である。その例外こそ、プリンス自販が仕掛けた一連のスカイラインキャンペーンによって世に浸透した、桜井真一郎氏である。

文:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA)

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