ル・マン参戦のために設計されたアストンマーティンが公道用に仕立て直される?

Photography:Gus Gregory



その頃になると、より軽く、コンパクトなDB3SがDB3に取って代わったが、問題は絶えなかった。今度は最高速を高めるために、フィーリーは一体型のクーペボディを生み出した。そして空力効率の向上を最大限に活かすために、シャシーナンバー"6"と"7"の2台が製作された。1954年の春、それらはブルックランズへと運ばれ、航空機メーカーのヴィッカースの風洞で多くの時間が実験に費やされた。そして同社の空力担当エンジニアの助言により、オープンボディに比べて大幅によい空気抵抗係数を達成した。

予定より延びた実験は、当時アストンマーティンのチーム・マネジャーを務めていたジョン・ワイヤの計画、つまり5月初めのミッレミリアでデビューという目論見を狂わせ、その2週間後のシルバーストンのBRDCミーティングがデビューとなった。だが、クーペボディのDB3Sはハンドリングが悪く、安定性に欠けていた。結局、ロイ・サルヴァドリ(6)が総合7位/クラス1位、グレアム・ホワイトヘッド(7)が総合12位/クラス3位という結果に終わった。これは、DB3Sが前年に記録した、ル・マン以外の出場レースにすべて優勝という圧倒的な成績からすると、期待を下回るものだった。このクーペ仕様のエンジンは、ツインプラグの新しいシリンダーヘッドを備え、パワーも43bhp向上していたにもかかわらずである。

1954年のル・マンでも、DB3Sクーペは明らかに安定性に欠けていた。後部のリフトのせいで高速では驚くほど不安定であり、またホワイトハウス・コーナーの進入部にある盛り上がりで車が跳ね上がるのに悩まされた挙げ句、2台ともほぼ同じ場所でクラッシュした。これで大きなダメージを負った2台は、その後オープンボディに改造され、ワークスがクローズドボディをレースに使用することは二度となかった。実は、ヴィッカースの空力担当エンジニアは、クーペボディの下側に大量の空気が流れ込むことに懸念を示していたが、当時はそのような現象について完全には理解されていなかった。 



それでも、レースでの失敗がロンドンのアールズ・コートで開催された1955年の自動車ショーに向けてDB3Sクーペが製
作されることの妨げとはならなかった。フィーリーはDB3Sのオープン仕様をベースに、滑らかなラインのクーペボディを架装し、グリルにはメッシュを採用した。そして最高出力180bhp(のちに210bhpまでアップ)のエンジン(ワークス仕様との違いは点火プラグが2本から1本となった点)を搭載した仕様がその後市販された。このスタイリングを一新したアストンマーティンは、間違いなくフィーリーの傑作であった。

その美しさは時間を超越しており、あの時代における最も素晴
らしいエレガントなスポーツカーとして、広く知れ渡っている。ウィンドスクリーンはレース仕様より立っており、シートの背後には適切なラゲッジスペースやスペアタイヤ、容量28.25ガロンの燃料タンクなどが配置されている。このクーペ仕様は、DB3Sが翌年に生産中止となるまでに、わずか3台が製作された。

シャシーナンバー"120"の1台目は、特別なGTを欲しがっていた社長のデイヴィッド・ブラウンの手に渡った。シャシーナンバー"113"は、高貴な地位にあるマックス・エイトケンが入手し、彼はすぐに半円形だった前輪のホイールアーチを古風な感じに改造するとともに、後輪にも小型のスパッツとクロームの装飾を追加した。

編集翻訳:工藤 勉 Transcreation:Tsutomu KUDOH Words:Paul Chudecki 

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