ブリティッシュ・レイランドによる占領統治からジャガーを守った陰の功労者とは?

Photograph:Jaguar Heritage

Dタイプのファイナル・プロトタイプのコクピットに収まる、テストドライバーのノーマン・デュイスとチーフエンジニアのウィリアム・ヘインズ。その後方で控えめに微笑む眼鏡の人物こそ、ブリティッシュ・レイランドによる占領統治からジャガーを守った陰の功労者だ。

10年以上にわたる辛抱強い戦いの末、ジャガーがジャガーとして存続することが決まった時、ボブ・ナイトは初めて自分のデスクを片付け、オフィスの明かりを消して家路についた。
 
彼は将来の夢など望み得ない状況のもと、世界で最も素晴らしいと言われる車を設計し、その成功によって会社を救ったのだった。ブリティッシュ・レイランド(BL)が1968年にジャガーを傘下に収めたとき、これに危機感を覚えた彼はエンジニアリングチームとデザインチームの結束を計って社内をまとめ、名前のみを残して抹殺されようとしていたジャガーを救った、陰の英雄として知られている。BLはジャガーブランドの魂を破壊するかのように見えた、そんな時期のことであった。
 
1920年生まれのナイトは、英国最古の学校のひとつであるコヴェントリーのバブレイク校を経てバーミンガム大学に進学。卒業後の1944年、ウィリアム・ライオンズとウィリアム・ウォムズリーのSSカーズに、設計オフィスのテクニカルアシスタントとして入社した。彼が入社した直後に、SSカーズは社名をジャガーカーズに変更した。
 
SSカーズは美しいスタイリングの車を生産していたが、そのエンジンは他社からの供給に頼っていた。のちに傑作の誉れ高いXKユニットを生み出すチーフエンジニアのウィリアム・ヘインズは、かねてから自社製エンジンの必要性を説き続けていた。そのヘインズ自身がナイトに入社を働きかけたというが、理由はといえば、ヘインズは直感的な才能には長けていたものの理論的なアプローチが得意ではなく、自分とは対極にあるナイトの知性と分析技術に驚嘆したことであったという。

果たして、生真面目な性格のナイトは問題点を次々に解決していき、1951年には車両開発主任エンジニアの地位に就いた。マークⅤサルーン、XK120の開発に携わり、また翌52年からジャガーに参加したマルコム・セイヤーと組んでCタイプ、Dタイプなどのレーシングモデルを生み出した。セイヤーは航空機メーカーであるブリストル社の出身で、空気力学を専門とし、ナイトは応用数学を用いた彼の空気力学に感銘を受け、セイヤーのボディと自分が設計したシャシーを組み合わせることに熱中した。
 
ジャガーCタイプは、モダンなキャリパータイプのディスクブレーキを最初に装着したスポーツカーとして知られるが、これはナイトが開発したものだ。後継のレーシングモデルDタイプでは、ロードホールディングとライドコンフォートを向上させるため、後輪の独立懸架を完成させた。ナイトはこの設計を27日間で完成したが、このとき、1カ月以内にできるはずがないと言うウィリアム・ライオンズとの間で5ポンドを賭け、見事に1カ月以内で完成させ、賭に勝ったと言われている。
 
ナイトは、1960 年までにすべてのジャガーの開発を監督し、3年後ヘインズの後任としてチーフエンジニアとなった。だが、車の操縦には熱心ではなく、テストドライバーのノーマン・デュイスは理想的なパートナーであった。ナイトは高速走行の課題をデュイスに託し、自身はライドクォリティと騒音と振動の抑制に没頭した。ナイトが手掛けた後輪独立懸架は、Sタイプを経て傑作といわれるXJ6へと受け継がれた。これは当時、その卓越したロードマナーで他のどんなサルーンより優れていると万人が認める存在だった。
 
1965年会社はBMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)に参加、その後にBMCは国営のレイランド社に吸収されてBLMCとなる。ジャガーOBたちは引退また高齢で亡くなる人も多かったことから、ナイトは彼自身が従来のジャガーの仕事を継承している唯一の人物になってしまったことに気づいた。
 
彼はローバーやトライアンフなど他のBLMCブランドと混同されることで、ジャガーをジャガーたらしめた特有の技術が希薄になることを危惧し、全力を尽くして抵抗した。

1969年にジャガーのボードメンバーとなった。1973年には、主力商品であるXJ6の後継モデルであるXJ40の開発プログラムが始まったが、BLは依然として充分な資金を与えなかったことで、XJ40プロジェクトはほとんど無視された状態だった。当時を知る人々の証言によれば、それはブラウンズレーン本社にわずかにあったデザインとエンジニアリング設備を残すための、"信念に基づく穏やかなストライキ" だったという。
 
1977年には英帝国勲爵士を授与されたナイトは、ぼろぼろになったジャガーのグリーンの旗をいよいよ強く振り続けた。1978年から2年間の社長在任中は、品質の急激な低下と、「XJ6の外装色を赤、白、酷い黄色に限定する」などという本社からの馬鹿げた命令に悩まされた。彼はBLの技術監督職への誘いを断り、またXJ40にローバーV8を使用するという"有り難い" 申し出も拒絶し、そのためにエンジンルームの形状を変えた。

1980年に着任し、ジャガーを再生させたジョン・イーガンはナイトを慰留したが、彼は引退を望んだ。「ボブは几帳面な、とても素晴らしいエンジニアだった。長年に渉る上からの不当な圧力との不利な戦いに飽きていたのだ」とイーガンは彼の回顧録『セイビングジャガー』に記している。 

ナイトは、いかにも彼らしく、正式の雇用契約終了をもってジャガーを去り、その後RR 、ダンロップなど多くの企業で顧問を歴任した。引退前からの愛車、デイムラー・ダブルシックス・シリーズ2は2000 年に81歳で亡くなるまで持ち続けていた。その間、イーガンはジャガーを復活させるという約束を実行し、ナイトの最後の作品であるXJ40はジャガーが民営化を果たした2年後、復活の象徴として1986年に発表された。

編集翻訳:小石原耕作 Transcreation:Kosaku KOISHIHARA Words:Giles Chapman 

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